ラース・フォン・トリアー(Lars von Trier 1956-)の「ニンフォマニアック」(Nymphomaniac 2013)が彼の大回顧上映企画の中で公開されました。
映画『ラース・フォン・トリアー レトロスペクティブ2023』公式サイト
この映画は、すでに2014年、本邦でも劇場公開されています。
今回は当時大幅にカットされてしまっていたシーンを含む、ディレクターズカット版を採用。
ボカシも一切入っていませんから、実質、本来の姿での劇場上映は「日本初」ということになるようです。
2回に分割されていてvol.1が147分、Vol.2が177分。
全体で5時間半を超える「超大作」です。
ニンフォマニアック=色情狂。
内容は全くストレートにこのタイトル通りです。
何のメタファーもアイロニーもありません。
全編にわたってハードな性表現が横溢。
当然にR18+です。
では本作をポルノ映画と単純にカテゴライズできるかといえば、トリアーですから、無論、そうくくることはできません。
難解なアート映画でもありません。
むしろこの監督の作品としては、極めてわかりやすい部類に入る内容といえます。
悲惨に深刻なシーンも多数含まれていますが、シリアスなヒューマンドラマとも言い切れません。
ほとんどコメディといっても良いくらい、笑える場面も多く含まれています。
あえて例えるならば、これは、愉快なまでに不愉快な寓話的映画、ということになるでしょうか。
一種の「対話劇」としてのスタイルをもっている映画でもあります。
語り手は色情狂の女性ジョー(シャルロット・ゲンズブール)。
聞き手はセリグマンと名乗る独居の中年男(ステラン・スカルスガルド)。
5時間半をかけて、夜から明け方まで、一人の女性色情狂の半生が語られていきます。
面白いのはセリグマンという人物の設定です。
路上に倒れていたジョーを自宅に連れ帰り、介抱しながら静かに話を聞き出していく彼は、落ち着いた語り口と豊富な知識から、どうやら元々は知的な仕事についていたらしいインテリとみられます。
彼はジョーに語りかけます。
「二種類の人間がいる。爪を切るとき、左手の指から切る者と右手の指から切る者が。」
「左手から先に切る者は快楽を優先する。なぜなら切りやすい方から切るからだ。」
これに対しジョーは即座に言い返します。
「そんなこと考えたこともない。左手から切るに決まっている。」と。
「人間には二種類いる」という文句を好んで口にする人がいたりします。
こういう人は、たいていは、ちょっと気の利いた「うまいことをいってやろう」という底意をもっていて、知的なマウンティングをとりたがりたい傾向があるように思えます。
セリグマンという人物もおそらくこの系統なのでしょう。
セリグマンはアイザック・ウォルトンの『釣魚大全』を引き合いに出してジョーの「男釣り」を解釈したり、ルブリョフのイコンを使って東方教会と西方教会の違いを説明する等、雑多に広範な「ヨーロッパ風」知識を援用してきっかけをつくりながら、ジョーの性遍歴を彼女の口から引き出していきます。
しかし、結局、セリグマンが溜め込んできた知識や常識は、ジョーによって、ことごとく、無意味化されてしまいます。
孤独な中年男は、色情狂女に対し、一旦は知的にマウンティングをとったつもりが、最終的には打ちのめされて終わります。
爪を切る順番の違いなど、ジョーにとっては、そもそも全くその視野にも思考にも入ってこない、考えること自体が無意味なことなのです。
利き手で、利き手ではない方の爪から切る。
そこに「快楽の優先度」など、本来、ありません。
性欲とそれによってもたらされる快楽に理由も理屈も関係はないのです。
セリグマンの欺瞞が木っ端微塵にされる場面です。
推測ですが、このセリグマンという人物には、二つのキャラクターが同居しているように思えます。
一つは、ラース・フォン・トリアー自身。
もう一つは、他ならぬそのトリアーが最も忌み嫌っているとみられる訳知り顔のインテリ男たちの総体としての人格です。
自分自身と、その自分が嫌悪する人格が混淆しているという、矛盾の塊のような存在がセリグマンということになるでしょうか。
セリグマンは、ヴァーグナーの「ラインの黄金」を突然「下降」のメタファーに使ったり、ベートーヴェンのフーガをもっともらしく賞賛するなど、音楽への造詣の深さをジョーに示します。
これはおそらくトリアー自身の趣味を反映したセリグマンのキャラクターです。
他方で、ジョーが処女を失う場面では、フィボナッチ級数を行為の回数に当てはめて悦に入ったりと、見事に薄っぺらい「知性」を披露したかと思えば、中絶をめぐる議論ではジョーに徹底的に「理詰め」でやり込められています。
「生」に直ちに接しているジョーに対し、なんとか「知性」の側に強引に寄りかかって「性」の生々しさに対抗しようとしているセリグマンは、トリアーにとって唾棄すべき人格なのですが、それを否定しようとすればするほど、トリアー自身に溜め込まれた「知性」が頭をもたげてきてしまう。
だから、セリグマンのセリフは常に、ある種の悲惨な滑稽さを伴うことになります。
さらに、あまりにも露骨なジョーの行為が、セリグマンのフィルターを通して映像化されるため、奇妙な小洒落感を伴ったロジカルな光景につながり、ポルノがアート風の画像に変換されるという効果を生み出しています。
悲惨と滑稽、愉快と不愉快、美醜がコロコロと入れ替わっていくトリアー独特の世界が延々と続く映画です。
これほど無機的に性的な映画も珍しいと思います。
ジョーは、セックス依存症に苦しむ人たちの自助グループ会で、「自分はニンフォマニアックだ」と宣言します。
彼女にとって、「セックス依存症」と「色情狂」は、明確に違うものです。
このことが、図らずも、セリグマンの似非インテリ風の「助け舟」によって、鑑賞者に十分過ぎるほど伝達されてしまってもいるため、ジョーの行為を観ていても少しも「エロく」感じられないのです。
自分がひょっとすると不感症なのではないかと思えてしまうほど、トリアーの意地悪なプランが行き届いている映画ともいえそうです。
トリアー自身とトリアーが嫌悪する人格の合一体であるセリグマン。
彼とは根本的に別世界を生きるジョーが奇跡的に不幸なスタイルで渾然一体となって表現されてしまう、この映画最恐の場面が、Vol.1の終わりに現れます。
セリグマンが得意気に解説するJ.S.バッハの「オルゲルビュヒライン」からの1曲、「われ、汝に呼ばわる、主イエス・キリストよ」BWV639に、こともあろうにジョーの「行為」が合奏される場面です。
ここでは、トリアーが、ある意味、自滅的に認知行動療法を悪用し、「音楽」と「性」を病的なまでに結びつけてしまっていますから、観る人によっては、破壊的なダメージを受ける可能性がありそうです。
バッハを尊崇する人は絶対に観てはいけない映画です。
一方で、トリアーの見事な音楽センスを感じさせる要素も確認できます。
この映画では、セザール・フランクのヴァイオリン・ソナタの冒頭が何度も印象的に挿入されます。
しかし、奏されている楽器はヴァイオリンではなく、音域が低い、チェロです。
ジョーが内省的に散歩をしたり木を見つめたりする場面で使われているのですが、なぜ原曲ではなくあえてチェロ用に編曲された版が使われているのでしょうか。
それはおそらく、ジョーの心象によりそう声として、父親(クリスチャン・スレーター)のそれを想定しているからでしょう。
Vol.1で悲惨な最期を迎えるこの父親は、Vol.2ではジョーにとっての故郷的存在としてのみ登場しています。
救いようのないこの映画の中で、唯一、トリアーが観客のために織り込んだ甘味成分として効果をあげていると感じました。
自身の分身としてのセリグマンと、嫌悪すべき存在としてのセリグマン。
どうしようもなくアンビバレントに融合したこのインテリ風独身中年男に対する、トリアーとしての決着の仕方は映画の最後に描かれています。
なぜ、この役にわざわざステラン・スカルスガルドがあてられていたのか、一瞬で理解できるラストでした。