まったくの偶然ですが、「演劇人」を描いた、きわめて対照的な映画二本を立て続けに鑑賞することになりました。
一つは、ジャック・ロジエ(Jacques Rozier 1926-2023)が監督した「フィフィ・マルタンガル」(Fifi Martingale 2001)。
特集上映「みんなのジャック・ロジエ」の中で紹介された20年以上前の作品ですが、劇場での公開は日本初ですから、実質、新作といってもよいかもしれません。
もう一本は、ウェス・アンダーソン監督(Wesley Anderson 1969-)によるピカピカの新作、「アステロイド・シティ」(Asteroid City 2023)です。
2本とも演劇の舞台裏、「楽屋落ち」的なユーモアが全編に織り込まれているという点で共通する、紛れもないコメディ映画です。
しかし、ロジエとアンダーソンという、二人の監督がみつめている「演劇人」は、それぞれに、圧倒的に違います。
とことん演劇人を信じている監督=ジャック・ロジエ。
一方、悲劇的といっても良いくらい、演劇人を全く信用していない監督=ウェス・アンダーソン。
どちらの側からも素晴らしい映画が出来てしまうという意味で、とても面白い体験でした。
「フィフィ・マルタンガル」は、自己顕示欲の強い舞台作家のわがままによって、劇場人たちが翻弄されていくという抱腹絶倒の喜劇です。
150回以上も再演を重ねる人気演目「イースターエッグ」を手がける舞台作家(マイク・マーシャル)は、この演劇が権威ある「モリエール賞」を受けてしまったことに腹を立てています。
大衆性を売り物にしている演劇なのに、芸術性を重んじる演劇批評家たちに評価されてしまったことが気に入らないということなのでしょう。
彼は舞台を「作りかえる」と宣言し稽古を始めます。
独りよがりな舞台作家の「改変」に苛立つ劇場支配人や俳優たちは反発し上演に暗雲がたちこめる中、降板俳優の穴を埋める救世主だったはずの老座長(ジャン・ルフェーブル)も突然の破綻。
舞台が崩壊する直前、これぞ大衆演劇ともいえる「サルスエラ」のリズムで全てが大団円を迎えるという、「喜劇の神様」に祝福されたような映画です。
この作品が遺作となってしまった名優ジャン・ルフェーブル(Jean Lefebvre 1919-2004)の滋味深い振る舞いに加え、前作「メーヌ・オセアン」にも登場していた「ロジエ組」ともいえる俳優たちが縦横無尽に活躍する「フィフィ・マルタンガル」は、どこをとっても、「演劇人」たちの、その場の空気まで活性化させてしまうような至芸に溢れています。
2001年当時、75歳前後にあったジャック・ロジエは、若手をほとんど使うことなく、気心の知れた中高年俳優たちの芝居力に絶大な信頼を置いていて、その期待に出演者たちも、待ってました、とばかりに応えているようです。
実に気持ち良い映画です。
劇中劇「イースターエッグ」と共に、映画「フィフィ・マルタンガル」も喜劇の神に愛されて創造された作品といえるかもしれません。
「アステロイド・シティ」も、「劇中劇方式」がとられています。
しかし、こちらはウェス・アンダーソンらしく、かなり構造的に凝った作りになっていて、その「設定」自体でまず観客を幻惑します。
ある劇作家(エドワード・ノートン)による演劇創作過程、その「裏側」を紹介するというテレビ番組の「枠組み」と同時並行的に、当の演劇自体が映像化されるというスタイル。
観ている最中は頭が混乱してくるのですが、観終わると意外にシンプルな構造をしていた作品であることに気が付きます。
人工的にすぎるカラーリングで仕上げられた「映像化された演劇」は、劇作家の中で空想されている映像、つまり「脳内舞台」です。
そう割り切ってしまうと、実にわかりやすい映画なのです。
ならば初めからその脳内舞台だけ映画にすれば良いのでは、とも思うわけですが、そこはこの監督独特のこだわりというか、一種の「照れ隠し」があって、まずはその「脳内」を写すための「枠組み」から説明しないと気が済まないということなのでしょう。
結果的に、一見複雑でわかりにくい構造自体が、さらに人工美の極地を現す映像をスタイリッシュに裏打ちしてくるので、観客にちょっとスノビッシュな快感を与えてくれるという、いかにもこの監督らしい映画に仕上がっているようです。
演劇人を信頼しきっているロジエと演技のコクをこれでもかと楽しませてくれる俳優たちによる「フィフィ」に対し、「アステロイド・シティ」に出てくる俳優たちは、ほとんど「演技」をしていません。
終始能面のように表情を作り込んでいるジェイソン・シュワルツマンやスカーレット・ヨハンソン。
演技というより「顔」そのもののクセで選ばれているような子役たち。
もともと演技がさほど上手いとは思えないトム・ハンクスが「自然体」で臨んで効果を発揮。
ジェフ・ゴールドブラムに至っては、「ミステロイド」からきた土屋嘉男と同様、ほとんど顔すら確認できないエイリアン役があてがわれています。
「枠組み」のモノクロ映像の中で、ウィレム・デフォー演じる演劇教師が登場する場面がありますが、ここでの「指導」も実に空虚感が漂っていて、ウェス・アンダーソンが、実は「演技指導」というものに甚だ懐疑的な人であることを想像させます。
この監督は、「演技」、ひいては「演劇人」という存在に、どこか醒めた視線をもって接しているように感じられます。
平たく言えば、私の勝手な想像ではありますが、俳優たちの演技を「信用していない」のです。
だから、彼は「演技以外」のフレーム設定、映像にとことんこだわらざるをえません。そして、演技に頼らずとも極めてスタイリッシュな独自の世界を実際に創造してしまうことができる監督なのです。
ハリウッドの有名俳優たちがこの監督の作品に出演したがる理由もそこにあるのではないでしょうか。
自分の演技力が問われることがほとんど無いのに、オシャレにカッコよく映像化してくれるわけですから。
核とかソ連との軍拡競争とか、そうした「臭いもの」に蓋をして、踏んづけて、土の中に埋めた挙句、まだ元気に飛び跳ねることができていた1950年代のアメリカが「演技力を必要としない俳優」たちによって、刹那的に美しく懐古されている映画です。
これはこれで素晴らしく皮肉が効いたコメディであり、ここにも「喜劇の神様」はいると感じました。