デヴィッド・クローネンバーグ(David Cronenberg 1943-)の古典的代表作、「ビデオドローム」(Videodrome 1983)と「裸のランチ」(Naked Lunch 1991)が、各地のミニシアターで、たてつづけに再上映されました。
いずれも4Kレストア版。
映像のもつ空気感までもが見事に再現されています。
映画としての完成度の高さ、俳優陣の豪華さという点では「裸のランチ」が当然に優位です。
しかし、ひとつの映像体験としてみた場合、あらためて「ビデオドローム」の方に圧倒的な衝撃を受けました。
意外でした。
二つの作品とも、現実世界と、それとは遊離した幻想世界を、主人公が往来しつつ、最終的には、二つの世界がぐちゃぐちゃに溶融してしまうという、共通の構造をもっています。
しかし、「ビデオドローム」と「裸のランチ」では、その二つの世界を結びつける「触媒」に決定的な質としての違いがあります。
「ビデオドローム」において、主人公マックス・レン(ジェームズ・ウッズ)の心象世界を作り変えてしまう「触媒」は、「映像」そのものです。
過激なコンテンツを探し求めるCATVの経営者レンにもたらされる虚実曖昧なSM映像=ヴィデオドロームは、視聴覚を通してのみ、彼の心象を侵食していきます。
他方、「裸のランチ」で、害虫駆除作業員ビル・リー(ピーター・ウェラー)を別世界に誘う「触媒」は、精錬された黒ムカデの粉末、つまり一種のドラッグです。
もちろん実在の薬物ではなく、クローネンバーグが案出した架空の物質ですが、こちらは、直接的に摂取されることで、どうやら脳に作用を及ぼす機能をもっているようです。
「視聴覚」だけに作用して世界を創り変えてしまうヴィデオドロームと、直接摂取することで脳そのものを支配するベンウェイ医師特製のドラッグ。
ただ、「裸のランチ」で起きている不可思議な現象は、つきつめてしまえば、ビリーの脳が「直接的」に薬の作用によって創り出している世界であって、実は、別に不思議なことでも何でもない、ということもできるわけです。
一方、「ヒデオドローム」で生成されている別世界は、どうやって「視聴覚」だけに作用しながらレンを支配することができているのでしょうか。
触媒が作用する要素に関してみると、「ビデオドローム」の方があまりにも不条理に「間接的」と感じます。
発想の次元が、「ビデオドローム」は「裸のランチ」より数等、突飛なのです。
これまで、幸いにも、違法薬物のお世話になったことは一度もありません。
ただ、一時、睡眠障害に悩まされていた頃、ベンゾジアゼピン系の結構きつい睡眠薬を医者から処方されていたことがあります。
もちろん幻覚などを見ることはなかったのですが、服用後は、覚醒しているときも、フワフワした妙な感覚が残ることがあって、時々、現実世界との距離感が掴みにくくなるという経験をしたことがあります(単に寝ぼけていただけなのかもしれませんが)。
これほど極端なケースではなくても、風邪で高熱を出したときに、「脳」がなんとなく変な反応をしているらしいことを、多くの人が経験しているのではないでしょうか。
「裸のランチ」が公開された1991年からすでに30年以上が経過しています。
この間、「脳」がもっている随分といい加減であやふやな性質が一般的に認知されるようになりました。
荒っぽい言い方をすれば、「裸のランチ」は、「脳がやることですから、そういうこともあるでしょう」というレベルのお話として、今や、多くの鑑賞者にとって「理解の範囲」に入ってきてしまった映画ではないかと思えるのです。
バロウズの小説をさらに読み替えたクローネンバーグによるストーリー自体は何度観てもわけがわからない部分が残ります。
しかし、その「わかりにくさ」自体が、理解され、消費されてしまう時代に入ったということかもしれません。
「ビデオドローム」は1983年の映画です。
おそらく当時、この作品の世界観が何を意味しているのか、ほとんどの観客が理解できなかったのではないかと想像しています。
しかし、今となってみると、「裸のランチ」とは別の意味で、「ビデオドローム」はとても身近な映画に感じられるのではないでしょうか。
ヴィデオドロームは、刺激的な映像を追求していく欲望そのものによって別世界を創り出します。
この一種の「映像ウィルス」は、主人公レンに視覚を通して伝染し、彼の心象をついには支配したあげく、無限ループのような地獄世界に呑み込んでしまいます。
かつて、ベンヤミンが『複製技術時代の芸術』で予言していたように、刺激的な映像を際限なく追求していく人間の傾向は、映像技術の進展に伴い、この映画がつくられた80年代に一段階、上の階層に遷移したように感じます。
しかし、クローネンバーグが描こうとしていた「視聴覚ウィルスによる無限地獄」のような世界が、具体的にイメージできるようになったのは、おそらくつい最近のことでしょう。
通勤通学時はもとより、仕事中も食事中も、ひょっとすると風呂に入っているときですら、「映像」にとりつかれている現状は、もう一種の「ヴィデオドローム世界」です。
ドラッグによって「脳」そのものが創りだす「わかりやすくヘンテコリン」な作用ではなく、「視聴覚」から理不尽に作用する映像ウィルス=ヴィデオドローム。
「裸のランチ」の幻覚世界が今や牧歌的にすら感じられるほど、「ビデオドローム」は現実的な恐怖につながっているかもしれない、としたら大袈裟でしょうか。
そして、偶然なのですが、クローネンバーグとは全く別の手法で、独特の「感染」を取り扱った映画が、最近、リバイバル上映されています。
「ラース・フォン・トリアー レトロスペクティブ 2023」で取り上げられている、この監督による「ヨーロッパ三部作」の二作目、「エピデミック〜伝染病」(Epidemic 1987)です。
この作品も「二つの世界」を取り扱っています。
一つは、トリアー自身も脚本家として登場する現実世界。
もう一つは、トリアーが書いているある映画の脚本内世界です。
脚本内世界では、ペストとみられる強烈な伝染病に侵される都市とそれに挑む医師の姿が描かれています。
それと同時に、トリアーが脚本を書いている現実世界も同時並行的にある疫病が蔓延しつつあるという設定が、メタ視点で説明されます。
映画の最後に、この二つの世界が突如として劇的に混淆するのです。
現実世界のトリアーは、映画に懐疑的なプロデューサーに脚本の面白さを伝える余興として、催眠術師とその被験者パートナーをディナーに招待し、脚本内の世界を催眠によって再現しようと試みます。
ここで脚本内世界のウィルスが、現実世界のウィルスとなって全ての登場人物を呑み込んでしまうのです。
催眠術にかかる女性被験者を演じる俳優の迫真性が驚異的なレベルであることもあって、トラウマ級に印象に残ってしまう場面ですが、それより恐ろしいのは、ここでは何が「触媒」となって病が伝染しているか、ということです。
映画「エピデミック」では、脚本力、つまり「想像する力」が、直接的にウィルス(あるいはなんらかの病原菌)となって作用しているのです。
ここに描かれた「触媒」ほど恐ろしい物質もありません。
クローネンバーグが「ヒデオドローム」で「映像」をウィルス化したこともたいそう刺激的ですけれど、「脚本」を病魔発症への触媒としてしてしまうというトリアーの発想力にも唖然としてしまいます。