パオロ・タヴィアーニ(Paolo Taviani 1931-)が、はじめて兄ヴィットリオとの共同ではなく、単独で監督した映画、「遺灰は語る」(Leonora Addio 2022)が公開されました。
一個の、パオロ・タヴィアーニとしてのデビュー作です。
制作時、監督は91歳。
100歳を超えてからも素晴らしい映画を創り続けていたマノエル・ド・オリヴィエラの例もありますから、別に不思議なことではありませんが、それにしても大変なお歳ではあります。
ところで、昨年、安楽死を選んだゴダールのことをタヴィアーニはどう感じていたのでしょうか。
新作を公開したパオロ・タヴィアーニと、自らの人生に幕を下ろしたジャン=リュック・ゴダール。
極めて対照的な行動をとったこの二人は、2022年当時、同じ91歳の映画監督でした。
本作「遺灰は語る」には、パオロ・タヴィアーニからの、さまざまな「挨拶」がこめられているように感じます。
まず最初に、パオロは、兄ヴィットリオ・タヴィアーニに向けてはっきり挨拶しています。
映画の冒頭、この作品が彼に捧げられたことが、テキストで示されていました。
ヴィットリオ(Vittorio Taviani 1929-2018)は88歳で亡くなっていますから、現時点でみると、年齢としては弟が兄を追い越してしまっているわけですが、この作品の撮影中、パオロは常に「兄の視点」を意識していたそうです。
「遺灰は語る」は、直接的に死を扱っているにもかかわらず、重苦しさよりも不思議な軽妙さが支配している作品です。
一方で、一つ一つのカットには全く浮き足だったところがなく、心地よいまでに落ち着き払った気分が全体から感じられます。
「兄との推敲」を見えないところで行っていたパオロ・タヴィアーニの「リズム」が反映されているのかもしれません。
また、戦時中のイタリアが描かれた場面では、ロッセリーニが引用されています。
兄と同時に、先達への挨拶もちゃっかり仕込まれているといえそうです。
さて、この映画においてパオロが最も盛大に挨拶をおくっている人物は、言うまでもなく、ルイジ・ピランデッロ(Luigi Pirandello 1867-1936)です。
傑作「カオス・シチリア物語」(Kaos 1985)において、彼の小説を映像化しただけでなく、ピランデッロ自身を名優オメロ・アントヌッティに演じさせて作品内に登場させたタヴィアーニ兄弟。
この文豪に対する並々ならぬ共感を隠してこなかった監督たちです。
ただ、パオロはまだピランデッロについて語り足りていなかったということなのかもしれません。
ついに彼の死と、その「遺灰」をテーマとしてこの作品を撮りあげました。
でも、アントヌッティ級に彼を演じることができる俳優を今さらながらに探しだして生々しく映像化することはさすがに野暮と判断したのでしょう。
「遺灰が語る」の中では冒頭、死の床にある劇作家の姿が映されはしますが、顔などは全くとらえられていません。
ピランデッロは「声」のみで登場し、ロベルト・エルリツカの渋く味わい深い語りでその存在が表現されています。
パオロ・タヴィアーニからルイジ・ピランデッロに。
ハイドンの研究で名高い音楽学者H.C.ロビンス・ランドンの言い方を借りれば、「老紳士から老紳士」におくられた美しい挨拶のような映画。
それがこの「遺灰は語る」です。
ただ、邦題はちょっと意訳しすぎかもしれません。
というのも、映画の中で、火葬され灰になってからのピランデッロは、ほとんど、「語っていない」からです。
骨壷に収まったピランデッロは、言葉を使うことなく、それを運ぶ気の毒なシチリアの行政官や、因習に凝り固まった司祭、地元の人々に、悲喜交々の様相を生起させていくことになります。
この「無言の壺」と周囲が生み出す関係性の描き方が、いかにもタヴィアーニらしい、陰陽おりまぜた人間劇として活写されているのですが、ここには、かつて" Fratelli Taviani"が実現していた、色鮮やかなエネルギーは感じられません。
代わりに体感されるのは、監督の盟友ニコラ・ピオヴァーニの音楽にサポートされた、落ち着き払った心地よい映像のリズムです。
なお、原題である"Leonora Addio"は、もともとはシナリオにあったあるセリフからとられたのだそうです。
結局そのセリフはカットされてしまったのですが、なんとなく良さげなのでそのままにした、という経緯にあるようです。
いかにもタヴィアーニらしいタイトルといえそうです。
ピランデッロへの丁重な挨拶として、パオロは、作家の短編『釘』を映像化し、本編に付属させています。
ブルックリンで起きた少年による少女殺害事件が扱われた謎めいた映像作品でした。
なぜ少年は見ずしらずの少女を唐突に釘で刺殺したのか。
少年はただ「定め」("on purpose")としか語らず、具体的な動機は最後まで明らかにされません。
解釈を完全に鑑賞者に委ねた作品です。
でも、それこそ「文学」ではないでしょうか。
明快な映画的解決法を取らなかったところに、パオロからピランデッロへの、最高に心が込められた「挨拶」が感じられます。
そして、この本編と短編との接続シーンに、「観客」に対するパオロ・タヴィアーニの「挨拶」が素晴らしい映像によって表現されています。
ほとんどモノクロで撮られた本編の最後、ピランデッロの遺灰がシチリア島を囲む海に撒かれる場面です。
ここで画面は、急激に色彩を取り戻しつつ、短編『釘』にシームレスに接続していきます。
かつて「カオス・シチリア物語」において見せつけられた、あの青いシチリアの海が眼前に再現されます。
これほど美しい「挨拶」は、滅多に受け取ったことがありません。
素晴らしい映画でした。