トリアー「イディオッツ」とドグマ95の快楽

 

各地のミニシアターで上映が始まっている「ラース・フォン・トリアー レトロスペクティブ2023」。
「イディオッツ」(Dogme # 2: Idioterne 1998)を鑑賞してみました。
4Kデジタル修復版です。

映画『ラース・フォン・トリアー レトロスペクティブ2023』公式サイト

 

この作品は「ドグマ95」のルールに従って制作されています。

ドグマ95(dogme95)とは、1995年、ラース・フォン・トリアー(Lars von Trier 1956-)とトマス・ヴィンターベア(Thomas Vinterberg 1969-)によって宣言されフレームワークが定められた、一種の映画制作ムーヴメントです。
詳細は省きますがこの運動を特徴づけている大きな要素が、以下にみる「純潔の誓い」という10ヶ条からなるルールです。

 

1.撮影は「現場」で行わなければならない(スタジオ・セットの使用禁止)。

2.音響は撮影現場で収録されたものでなければならない(別収録BGM、効果音の禁止)。

3.カメラは手持ちカメラに限定する(システマチックな大型カメラ等の禁止)。

4.カラーに限定する(モノクロや特殊な照明効果の禁止)。

5.光学的な加工やフィルターの使用禁止。

6.表面的なアクションの排除(殺人や凶器使用シーンの禁止)。

7.時間的・地理的な乖離を認めない(「現在」のみ。回想シーンなどの禁止)。

8.ジャンル映画の禁止。

9.フィルムは35ミリに限定(それ以外のフィルムフォーマットの禁止)。

10.監督名クレジットの禁止。

 

お気づきのように、全て、「禁止事項」です。
「〜をしよう」というポジティブな憲章的性格を持った規範ではなく、厳格な「戒め」として定められたルールがドグマ95ということになります。
10の戒めですから、旧約聖書の「十戒」が意識されてもいるようです(多分、冗談が半分以上入ってはいそうですが)。

ハリウッド的なビックバジェット至上主義、過剰表現等への対抗策として提唱されたと説明されることが多いようです。
厳しい制約を課すことで、映画が本来的に持っていた純度を取り戻そうという思想。
一見、「宗教改革」すら思わせる高邁さ、急進性、先鋭性が感じられます。

www.dogme95.dk

 

「イディオッツ」もこの10の禁止事項を遵守していると思います。
ただ、サン=サーンスの「白鳥」が印象的に使用されているので、第2の禁止事項である「BGMの禁止」に抵触しているとも指摘されています。
どうでしょうか。
確かに映像と直接リンクすることなく曲が使われていますが、演奏は全てハーモニカによるもの。
チェロでもピアノでもありません。
つまり、「現場」で、簡単に映像収録と同時に奏することができる楽器です。
芝居と関係なくても、現場で別のスタッフが吹いていたのであれば、それは形式的には禁止事項2に該当しないことになります。
現場を見ていたわけでは当然ありませんから、真相はわかりませんし、禁止事項の本来の趣旨から見て疑問は感じますが、この「白鳥」使用をもってドグマ95に違反していると指摘してもあまり意味はないようにも思えます。

 


www.youtube.com

 

禁欲的とも思えるドグマ95の10戒。
しかし、この「イディオッツ」おいて、トリアーはむしろその禁止事項、つまり「縛り」自体を楽しんでいるのではないでしょうか。
作品を観ていると、強烈に、彼が覚えていたのであろう「縛られる快楽」が伝わってくるように思えます。

手持ちカメラによって、気持ち悪くなるくらいフラフラと「臨場」を映し出すショットが連続します。
常に「現場」が漂わせる似非ドキュメンタリー風の奇妙な空気感。
体臭まで感じられるような俳優たちの生々しい演技。
トリアーの、撮影そのものを自分自身が味わい尽くしているような、じっとりとした快感の息遣いが伝わってきます。

ところで、10の戒めがドグマ95の条件であるということは、逆に、これだけ守っていれば、「何を撮っても良い」ということです。
「イディオッツ」は知的障害者の「フリ」をすることで、周囲の人たちをからかいながら共同生活を営むというグループの行動が描かれた一種の群像劇です。
このテーマだけで、健常者側と障害者側、その他あらゆる方向から批判の銃弾を浴びそうな内容になるわけですが、そこはトリアーですから、性的表現を含め、テーマ自体のさらに上をいく過激な場面も随所に散りばめられています。
生理的に不快感が込み上げてくる場面が連続します。
さらに、その不快感を覚える自分自身にも嫌気がさしてくるという、「二重の不快」に苛まれる稀有な体験を約束してくれる映画です。

「内なる愚」を追い求めていたとみられるこのグループの顛末は、きっちり瓦解という結末を一応迎えはしますから、ハネケ風に最後まで不快が不快のまま放置されるわけではありません。
しかし、主人公カレンが実家を出ていく最終場面を観て残る後味の悪さはトリアー風味満点、十分に「滅入る愉しみ」を堪能できると思います。

ラース・フォン・トリアーは、心底真面目にドグマ95を「映画の純化」運動として認識していたのでしょうか。
私はむしろ、彼はこの「戒め」を一種のレバレッジとして、「快楽」を得ようとしていたのではないかと妄想しています。

10の戒めは、現代の映画監督の多くにとって、「縛り」以外の何ものでもありません。
特に第10の禁止事項である「監督名のクレジット表記禁止」は、その「作家性」までも否定していることになるわけですから、創作活動が長い監督ほど不利に働きます。
すでに十分実績を積んできたトリアーにとってみればより強く「束縛」される要素です。

しかし、トリアーは、この「縛り」を課すことにより、マンネリ化しがちな自身の映画語法、つまり「癖」を封じることに成功しているともいえます。
あえて「利き手」ではない、もう一本の腕で映画を撮ったらどうなるのか。
それは提唱者である彼自身に、苦痛と同時に、圧倒的に新鮮な「快楽」を与えたのではないでしょうか。

あらゆる手段や技術が手中にできるようになった現代の映画制作環境は、トリアーのように、常に心象の混沌とした魅力と不安を追跡しているアーティストにとってみると、むしろ、方向性や手法が定めにくい世界なのかもしれません。
それがドグマ95で「縛られ」ることによって、逆に解放されているかのようです。

ただいつまでも「利き手ではない腕」で撮り続けることはできなかったのでしょう。
トリアーのドグマ95作品はこの「イディオッツ」のみであり、映画運動自体も2005年に終了しています。
時代はすでに「縛る」ことすらできないくらい多様に分解してしまったようです。
個人的には、せめて、そろそろ陳腐なタイムループものの量産を防ぐ意味でも「メタバースの使用禁止」くらいは映画業界に宣言してほしいと思ってはいます。