フランク・ロイド・ライト展の今昔と二代目帝国ホテル

 

開館20周年記念展/帝国ホテル二代目本館100周年
フランク・ロイド・ライト 世界を結ぶ建築

■2024年1月11日〜3月10日
パナソニック留美術館

 

昨年の秋、豊田市美術館からはじまったフランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wright 1867–1959)の回顧展が新橋に巡回してきました(この後3月20日から青森県立美術館に巡回)。

panasonic.co.jp

 

最初に正直な感想を述べてしまうと、この展覧会、あまり楽しむことができませんでした。

とにかく「詰め込みすぎ」なのです。

パナソニック留美術館は今までも「分離派100年展」など建築関連の企画展を開催してきた実績があります。
決して広くはないスペースを上手に使いお得意の照明テクニックも駆使しながら見事な展示空間を創造してきました。

ただ、今回はかなり無理をしているようです。

膨大な数のドローイングや設計図面に加えてライトの建築思想や業績をしっかりたどれる豊富で詳細な解説ボードが設置されています。
結果として会場はおびただしいパーテーションによって区切られ展示空間自体がかなり狭隘に感じられます。
わずかな床面スペースには大型模型や椅子、食器などが置かれ、うっかりすると接触してしまうくらい高密度に作品が展示されています。

平日の午前に訪問したのですが、なんと入場前行列ができていました。
人気の建築家ですから閑散とすることはないとみていましたがこれは明らかに異常です。
来場者数が多いというよりも会場が狭すぎるために発生している入場制限と感じられました。

混雑した室内にだんだん息苦しくなり、結局30分にも満たない程度の鑑賞時間で会場を後にせざるを得ませんでした。
貴重なライト自筆のドローイングなど焦点を絞って見どころは鑑賞できたのですが、なんとなく物足りない印象が残った展覧会です。

 


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ところで本展は日本における「四半世紀ぶり」のライト展とされています。

たしかにおよそ25年前、1997年に「フランク・ロイド・ライトと日本」展が東京、大阪、広島、北海道などで開催されていることが確認できます(この展覧会は鑑賞していません)。

ただ97年の「ライトと日本」展はライト自身が収集した日本美術作品の紹介を主体としたやや変則的な企画展となっていたようです。
図録の監修を建築関連の有識者ではなく日本美術史家である狩野博幸が担当していることからもその雰囲気が推測できます。

 

むしろ本格的な彼の回顧展としては、1991年に開催されたその名も「フランク・ロイド・ライト回顧展」がよく知られていると思います。
このレトロスペクティブを「前回」とすると今回のライト展はなんと32,3年ぶりの特別展ということになります。

91年展の図録が手元にあります。

本展と約30年前の回顧展を比較してみてちょっと不思議な感慨を覚えることになりました。

 

フランク・ロイド・ライト回顧展 (1991年開催) 図録表紙タイトル

 

1991年の「フランク・ロイド・ライト回顧展」の会場はセゾン美術館、京都国立近代美術館横浜美術館北九州市立美術館でした。

今は無きセゾン美術館の名前が懐かしく感じられます。
平成3年当時、バブル経済はすでに崩壊が始まっていましたがまだ西武セゾングループに一定の勢いがあった頃です。

開催には日本建築学会が全面的に協力しつつ主催者として名を連ね、展覧会実行委員長を黒川紀章(1934-2007)が務めています。
フランク・ロイド・ライト財団の知見と遺産を活用しながらも日本サイドが主体的にかなり力を入れた企画でした。

他方、今回のライト展はライト財団自体が主催の一翼を担い、ワシントン大学のケン・タダシ・オオシマ(Ken Tadashi Oshima 1965-)が中心となって監修企画されています。

開催会場となった各美術館のキュレーターたちももちろん大きく関与していると思われますが、解説テキストや図録の論考などをみるとオオシマやジェニファー・グレイといった米国側執筆者の存在が大きく目立っています。

こんなところにも、たまたまでしょうけれど「失われた30年」の気配を感じてしまいました。

 

さて本展は「帝国ホテル二代目本館100周年」を記念しての開催とも銘打たれています。

ライト設計の帝国ホテル本館が日比谷に姿を現した年、1923(大正12)年から昨年で100年が経過したことに因んでいます。

会場ではほぼ1パートをまるまるこの二代目帝国ホテル本館の存在にあて、設計プロセスだけでなく椅子やテーブル、ノリタケ製の食器類などの実物展示をも交えながら紹介していました。

 

 

帝国ホテルの1/100スケール模型も展示されています。

1991年展でも石膏製の白い模型が展示されていたことが図録から確認できます。
1915年、ホテル設計途上において制作されたもので所有は京都大学工学部です。

ところが本展では石膏模型に代わり、新たに制作された3Dプリンタによるレプリカが展示されています。
制作はこの分野での実績がかなり積み上がってきた京都工芸繊維大学KYOTO Design Labです。
2023年の制作ですからこの展覧会に間に合うように企画された模型なのでしょう。

どうやら京大蔵の石膏模型は経年劣化による破損が激しくなってきてしまったようです。
非常にディテールまでよく作り込まれた石膏模型ですが素材の脆さには勝てなかったのでしょう。

3Dレプリカでもその全体像は再現されているのですが細部の磨き上げまでは時間がなかったとみられ、よくみるとかなりぼんやりした造形になっていることがわかります。

またもや「30年」の重みを感じてしまいました。

 


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竣工100周年のおめでたい記念展なのであまりネガティブな情報は会場で紹介されていませんでしたけれど、この二代目帝国ホテル本館の「伝説」については91年展の図録内で建築史家の谷川正己(1930-2019)が厳しくその誤りを指摘しています。

ライト設計による帝国ホテルが開業した初日、よく知られているように関東大震災が発生しています。

ホテルは巨大地震の揺れに見事に耐え、このことがライトの名声に大きく寄与することになりました。

しかしこの「伝説」はかなり誇張されたものであることが谷川によって指摘されています。

実際には帝国ホテル二代目本館は火災こそ発生しなかったもののそれなりに地震による被害を受けていました。

ライトの耐震性を考慮した建築術は一定の効果を発揮してはいたようです。
しかし、もともと江戸湾の入江だった日比谷近辺の土地は軟弱であり、地盤の補強が行われてはいましたが建物が無傷というわけにはいかなかったのです。

「焼け野原の中で帝国ホテルだけが残った」というイメージもかなり幻想的な表現であることが判明しています。

付近にあった丸の内の三菱一号館地震には耐えていますし、何より巨大な東京駅は「ビクともしなかった」とされています。

周囲の大規模建築の中で帝国ホテルだけが地震に耐えたという誤ったイメージは、「震災の日に開業」という、普通に考えたら不運としか言いようのない状況を逆転させるための「思い込み」が生み出した「伝説」なのです。

 

1945(昭和20)年、ライトの帝国ホテルは東京への空襲によって被爆し南館客室2階の全部と宴会場の大半を焼失しています(本展図録P.120の「帝国ホテル二代目本館クロニクル」を参照)。

震災による損害と空襲による火災を考えるとこのホテルがピカピカの状態だった期間は実はそれほど長くはなかったといえるのかもしれません。

建設からわずか44年で取り壊されることになった背景には、もちろん立地に対する収容客数の低さといった経済的な面はあるのでしょうけれど、何より建物自体がかなり傷ついていたことがあるようにも思えます。

 

ライト自身、建設の途中で工期の遅れや予算超過の責任を問われて解雇され、竣工後の帝国ホテル二代目本館の姿は見ていません。

その後、二度と来日することなく1959年に世を去ったこの大建築家は、結果として1967年のホテル取り壊しについても知ることはありませんでした。