開館60周年記念
Re: スタートライン 1963-1970/2023
現代美術の動向展シリーズにみる美術館とアーティストの共感関係
■2023年4月28日〜7月2日
■京都国立近代美術館
京都国立近代美術館が「国立近代美術館 京都分館」として開館した1963年から、今年で60年。
「Re:スタートライン」展は、古臭いクリシェを使えば「還暦記念」として、この美術館の生誕時を振り返る内容ではあるのですが、凝りに凝った図録の完成度ともども、単なる回顧展の域を超えた内容に仕上がっていると思います。
京近美の本気度が伝わる素晴らしい企画展です。
開館早々にこの美術館が企てた「現代美術の動向」は、1963年から70年まで、毎年開催された現代日本美術の特集シリーズです。
1963年だけ、4月から5月にかけてと、7月から8月までの、計2回、開催されていますから、8年間に都合9回、続けられたことになります。
今回、会場ではそれぞれの開催回に際して京近美が制作した鑑賞者に向けての「挨拶文」が原文のまま展示されています。
それらの文章の中に、とても印象的なフレーズがありました。
「出品作の銓衡は当館の責任においてなされたものですが」(1965年回)
「当館の責任において選び」(1966年回)
「当館の責任において選別した」(1969年回)
「責任において」という、一見ありふれた表現が複数回、登場します。
しかしこれは、企画書や稟議書を書いた人ならわかると思いますが、実は、滅多に公的な文章や組織内の書面では、使われない言葉です。
自分が書いた文章なのだから、そのことに「責任をもつ」のは当たり前、だからあえて使わない、というわけではありません。
最終的にその文章に関して責任を持つのは、起案者ではなく、決裁者あるいは組織全体という建前になっているからです。
むしろ起案者や中間決裁者は、「責任」が自分一人に及ばないように、筆力を尽くして「責任回避」の文章を練り上げることになります。
そうやって出来た文章ですから、結局、誰が決裁しても、誰も責任を取らなくて良い書面ができあがることになります。
つまり、誰それの「責任において」などという文言は、企業やお役所ではむしろ、禁句、なのです。
にもかかわらず、国立の機関が、来館者に対する公的な文章の中で、責任をとる、と表明しているわけです。
「当館の責任において」。
相当な覚悟がなければ、使えないフレーズです。
誕生したばかりの京都国立近代美術館にみなぎっていた、ある種の「先鋭さ」がこの言葉に直接的に現れているように感じました。
毎回の作品選考は、基本的に学芸員たちの協議のみによって実施されたのだそうです。
大家の審査員たちや第三者的な組織は関わっていません。
だから「責任」がもてた、ともいえます。
当時の京近美がもっていた、その審美眼についての強い自負心が伝わってきます。
ただ、この「責任において」という言葉には、もう一つ、切実な美術館側の思いが込められているのではないかとも感じます。
「現代美術の動向」シリーズでは、結果的に、1960年代の日本現代美術シーンがまるごと切り取られることになりました。
「具体」から「もの派」「日本概念派」という、この国がまだかろうじて「美術史」をもっていた、熱い時代です。
しかし、それは今、回顧できるから言えることであって、同時代においてはまだ「歴史」になってはいません。
見ようによっては、当時の鑑賞者からは「美術ではない」と捉えられても仕方がない作品が溢れていたわけです。
だからこそ、京近美は、自身が「責任」をもつ、と言わざるを得なかったのでしょう。
入館料をとった挙句にガラクタを見せても許される昨今とは、時代の空気が違っていたようです。
京近美が当時、おそらく蛮勇をもって用いたこの「責任において」という言葉には、学芸員たちの先鋭な自負心と、鑑賞者の共感を希求する焦燥感が複雑に混じり合っていた、といえるかもしれません。
さて、本展のキービジュアルに採用されている一枚の写真があります。
安齊重男(1939-2020)が撮影した「菅木志雄 1970年7月6日 京都」です。
開け放たれた京近美旧館の窓に立てかけられた「木材」が写されている有名な写真。
この特別展の位置付けを、ある意味、端的に表している作品と感じました。
安齊重男が撮影当時を振り返った言葉が残されています(『国立国際美術館 2012』P.116)。
「七月とはいえ、すでに京都は蒸し暑く、館内には冷房が入っていましたから、係の人たちは大あわて、作家にプランの変更を迫る始末。それでも菅木志雄は平然とプランを変えることなく、美しい、今でいうインスタレーションを完成したのです。」
菅の作品は、この展示、一度きりの存在です。
同じように「木材」を使おうにも、もうかつての旧館も、当然にその窓も、外の景色も、エアコンの涼風を台無しにしてしまう外気も、存在しません。
李禹煥以上に「もの派」的な「もの派」ともいわれる菅木志雄の代表作は、安齊重男のフィルムの中において「Re:スタート」したのです。
今回の企画タイトルには、開館60年の節目を迎え、美術館としての「再起動」あるいは「再出発」という意味も込められているのでしょう。
しかし、素直に解釈すれば、京近美は、かつて開催された「現代美術の動向」展を、「安齊が写した菅」と同じように、60年後の今、再び、パッケージにして丸ごと、「新しい展覧会」として提示しようとしているのではないかと思われます。
その一つの証左が、今回製作された図録です。
メインとなっているのは、当時のテキストや出品一覧とともにモノクロで印刷された展示風景。
その中に、今回の「Re:スタートライン」展で紹介されている作品のカラー写真が、まるで綴込み付録のように組み込まれています。
驚いたのは、ページの中に、ところどころ、当時の新聞記事やチケットのレプリカ、オープンリール写真などの断片が、そのまま挿入されていること。
あらかじめ綴じられてはいません。
大きさもバラバラ。
それらが、一つ一つ、別個に、関係のあるページに挿入されているのです。
おそるべき手間がかけられています。
三層から成る複雑、かつ、遊び心満載の仕様。
「現代美術の動向」9回分が、まさに「封入」されているようなドキュメントになっています。
税込3000円と、図録にしてはほんのちょっとだけ高いのですが、この手の込んだ製本を目の当たりにすると、むしろ極端に安いのではないか、採算は大丈夫なのだろうかと余計な心配をしてしまうほどです。
ほとんど冗談のようなスタイルだった「大竹伸朗展」の図録ほどインパクトはないかもしれませんが、今年度個人的にはNo.1間違いなしの展覧会図録になるとみています。
(さらにこの図録には「続編」が予定されていて、そちらでは今回の展示風景などがメインとなるようです。会期終了後の発売予定とか。ものすごいこだわりを感じます。)
1970年、大阪万博開催の年を最後に「現代美術の動向」展は開かれなくなりました。
国立の美術館による現代日本美術のトレースは、この後、大阪の国立国際美術館が主に担うようになりますから、結果的に、役割分担上、一区切りつけた、ということになったのかもしれません。
でも、1970年くらいまではなんとか把握できた「もの派」「日本概念派」以降、この国では、もはや「美術史」を形成するような「一定の質」をもった「かたまり」、あるいは「流れ」のようなものがなくなり、分離分散化、多様化が徹底的に進んでしまったことが最大の要因であるようにも思えます。
今回の展示作品たちが帯びている、ある種の「古典性」から、そんな雑感をもちました。
なお、3F特別展会場内の写真撮影は一律禁止となっていますが、4Fのコレクション展はいつもの通り撮影可能です。