京都市立芸術大学芸術資料館の移転記念展

 

京都市立芸術大学芸術資料館移転記念特別展
京都芸大〈はじめて〉物語
第1期 カイセン始動ス!ー京都市立絵画専門学校に集いし若き才能ー

■2024年4月6日~6月2日

 

昨年2023年10月、沓掛から塩小路高倉に移転した京都市立芸術大学の「芸術資料館」が、引越し後初めてとなる企画展を開催しています。
初回にふさわしくこの学校を卒業した近代京都画壇の画家たちによる貴重な卒業制作絵画が特集されていました(無料)。

libmuse.kcua.ac.jp

 

一鑑賞者として京都芸大の移転で一つ心配だったことがあります。
沓掛時代、この資料館はキャンパス内の一画にありました。
一方、京都芸大は堀川御池に京都市立芸術大学ギャラリー"@KCUA"を2010年に開設。
決してアクセスが良いとはいえなかった沓掛キャンパスに対し@KCUAは市内中心エリアにありました。
これまでおおまかにいって、日本画中心の企画展を沓掛の資料館で開催し、現代アート関連の催事は@KCUAで実施するという二拠点体制で対外的なアート発信が行われてきたのではないかと思います。
どちらも尖った企画が多くそれぞれに魅力があるギャラリーでした。

今回の移転により、新キャンパスは京都駅のすぐ東側に立地するわけですからアクセス面の問題が一気に解決します。
当然に堀川御池にサテライト拠点をおく意味も無くなります。
結果として資料館と@KCUAが統合、あるいはどちらかが廃止されてしまうのではないかという危惧をもっていたのです。

幸いなことに新キャンパスでも両者はその役割分担を保持したまま存続することになりました。
塩小路通に面したC棟1階に開設されています。
芸術資料館のすぐ隣に@KCUAが設けられていますから、今後は一度に二つの施設を楽しむことができるようになりました。
御池の拠点をクローズした@KCUAの方は一足先に移転記念展を新キャンパス内で開催(久門剛史展)していますが、今回の資料館による企画展によりようやく京都芸大の新しいギャラリーがフルオープンしたということになります。
御同慶の至りです。

新しい芸術資料館では東側に大型の壁面展示ケースを設け、補完するように小型の展示ケースが一つ設置されていました。
西側面は解説資料などを掲示する場所としてフラットな壁になっています。
沓掛時代より広大なスペースが確保されているようですが、まだその空間利用に関しては模索中といった印象を受けました。
今後に期待したいと思います。

 

岡本神草「口紅」(部分)(京都市立芸術大学芸術資料館蔵)

 

「京都芸大〈はじめて〉物語」というタイトルが付けられています。
しかし移転後初回となる本展で取り上げられている画家たちは、この日本最古の公立芸術学校における「最初」の人たちではありません。

1880(明治13)年、「京都府画学校」として誕生した京都芸大はその名称を明治年間中に4回も変更。
場所も京都御苑内や知恩院内と転々としています。
1907(明治40)年に荒神口へ移転し当時「京都市立美術工芸学校」(「美工」)と名乗っていたこの教育機関は翌1908(明治41)年、日本画の上級課程である「京都市立絵画専門学校」(「絵専」)を新設します。
日本画を学ぶ人たちはまず「美工」でのカリキュラムを終えた後、高等機関であった「絵専」に進学するというパターンが多かったようです。
今回の特集は主にこの京都市立絵画専門学校、「カイセン」で学び卒業した日本画家たちが取り上げられているのです。

村上華岳や土田麦僊、小野竹喬、入江波光といった「第1期生」に加え、岡本神草、中村大三郎、堂本印象等の「第二世代」にあたる画家たちによる卒業制作が展示されています。
特に麦僊の「髪」や神草による「口紅」等は彼らの回顧展はもとよりさまざまな京都画壇関連企画展にも登場することが多い名作です。
リニューアルオープン記念展に華を添えるという意味で近代京都画壇のハイライトを形成した卒業生たちの豪華な作品群を初回企画にもってきたということなのでしょう。
無料で楽しんでしまって良いのかと少し申し訳なくなるくらいの名品たちが並んでいました。

 

入江波光「北野の裏の梅」(京都市立芸術大学芸術資料館蔵)

 

入江波光(1887-1948)は1905(明治38)年に「美工」を卒業すると「絵専」の2年に編入され、1911(明治44)年、同校第1期の卒業生となりました。
絵専卒業制作である「北野の裏の梅」は北野天満宮近くにある御土居周辺が描かれています。
波光(本名 幾治郎)はこのとき23歳です。
彼の代表作である「彼岸」(京都市美術館蔵)や「降魔」(西芳寺蔵)にみられる幻想的な筆致はまだみられませんが、民家と御土居を囲む梅は春めいた陽気さよりもどこか不穏な空気を漂わせているようにもみえます。
神経質なくらい細密に筆が駆使されています。
この人は後年になると仏画などの模写に特化するようになりますけれど、細かい線による描写力はすでにこの卒業制作にあらわれているとみることができるかもしれません。

 

村上華岳「二月の頃」(京都市立芸術大学芸術資料館蔵)

 

村上華岳(本名震一 1888-1939)も絵専第1期生の一人です。
美工から絵専2年への編入というプロセスは入江波光と全く同じです。
華岳の卒業制作は吉田山あたりの高台から東山の方角を描いた「二月の頃」という作品。
波光と同じく京都市内の風景を題材に選んでいて、抑制された色彩の選び方などもよく似ています。
しかし空間や表現方法に少し幻想的なバイアスをかけている波光に対し、華岳はかなり明瞭さを重視しているように感じられます。
華岳が描いた方角には銀閣寺や大文字山もその視野に入るはずなのですが、前者は竹林で隠し、後者はあえて画角からはずしたようです。
俗っぽい名所絵的にみられることを嫌ったのかもしれません。
真冬の京都らしい寒々しくも澄んだ空気感の表現が見事で、22歳の若書きとは思えない格調高さにも驚かされる一幅。
今回の展示で最も感銘を受けた作品です。

 

前田荻邨「風景」(京都市立芸術大学芸術資料館蔵)

 

前田荻邨(本名 八十八 1895-1947)は1916(大正5)年に美工を卒業、絵専に進み1919(大正8)年に卒業しています。
同期に三つ年下の中村大三郎(1898-1947)がいました。
「風景」と題された卒業制作が展示されています。
具体的な場所は示されていません。
田畑が広がる奥には画面全体を支配するように山がそびえています。
明快な色使いと古典的ともいえるスマートな筆致で人物像などを描いた大三郎に対し、荻邨の描く風景は異様な暗さが特徴的です。
手前の沼から左右を囲む木々に導かれつつ得体の知れない闇が山へと続いています。
後年は美工や絵専の教壇に立つなど教育者としての活躍の方が目立つ人ですが、独特の感性で事物を写し取ることができる画家だったのかもしれません。
奇しくも中村大三郎と同じ年、1947(昭和22)年、寺町今出川にあったという自宅で急逝、53歳の若さでした。

 

不染鉄「冬」(京都市立芸術大学芸術資料館蔵)

 

展示の最後には意外な画家が登場しています。
不染鉄(本名哲治 1891-1976)です。
東京の日本美術院で学んだ後、突然妻を伴って伊豆大島に移住し3年ほど漁師のような生活を送った不染が画家としての再起をはかった場所が京都でした。
1918(大正7)年、27歳で絵専の門を叩いたこの画家が1923(大正12)年、31歳で卒業する際に描いた作品が「冬」です。
今年の初春、奈良県立美術館が開催した「漂白の画家 不染鉄」展でも画家の転換点となった作品として展覧会の冒頭近くに展示されていた記念碑的作品です。
不染と絵専の学舎で親しく交流していた上村松篁(本名信太郎 1902-2001)によれば、京都時代の彼は「一遍上人絵伝」の模写を非常に熱心に行なっていたのだそうです。
「冬」には人物は一切登場していませんが、温かみと繊細さが同居したセピア色の景色からは時宗の祖を描いた中世絵巻の空気が伝わってくるようでもあります。

さてその上村松篁は不染鉄が卒業した1年後、1924(大正13)年に絵専を卒業しています。
今回、松篁は1階の芸術資料館ではなく6階にある「アートスペースk.kaneshiro」で個別に紹介されていました。
「春立つ頃」は絵専ではなくその前段階であった美工の卒業制作で1921(大正10)年に描かれた大作です。
「鳥」の人、上村松篁はその初期から鳥の人だったようです。

アートスペースk.kaneshiro内の上村松篁作品展示

 

なお芸術資料館は基本的に写真撮影OKの方針をとっています。
(@KCUAは企画によってNGの場合もあります)

今回を含め4期から構成されている「京都芸大〈はじめて〉物語」シリーズ。
次回は6月15日から「日本最初京都画学校」と題し、いよいよ本当の意味での京都芸大の起源が紹介される予定です。
こちらも非常に楽しみです。