不染鉄と京都|奈良県立美術館

 

開館50周年記念 特別展
漂泊の画家 不染鉄 ~理想郷を求めて

■2024年1月13日~3月10日
奈良県立美術館

 

総展示作品数、約120点。
奈良県立美術館の全館を不染鉄一色で染め上げた素晴らしい大回顧展です。

www.pref.nara.jp

 

不染鉄(1891-1976)の名とその画業を世に広く再認識させたことで知られる特別展「没後40年 幻の画家 不染鉄」が、東京ステーションギャラリーとここ奈良県美で開催された2017年から約7年が経過しています。

一人の画家を同じ美術館が再度大きく特集するにしてはややスパンが短いとも思えますが、奈良県美開館50周年記念シリーズの最後を飾る企画として、2017年展によって大きな話題を集めたこの奈良所縁の日本画家がやはり相応しいと判断されたのでしょう。

代表作から珍しい工芸関連の品まで網羅された圧倒的規模のレトロスペクティブに仕上がっていると思います。

 

本展の中で二人だけなのですが、不染鉄以外の画家の名前をみることができます。

不染の初期と晩期に関係するという意味でとても面白い展示でした。

 

一人は上村松篁(1902-2001)です。

「寒林白鷺」と題された小さな扇面画は、林の情景を不染鉄、その上を舞う白鷺を上村松篁が描いた二人の共作です。

彼らは京都市立絵画専門学校(現京都市立芸術大学)在学中に知り合い、親交を深めた仲でした。

「漂白の画家」と言われる不染鉄の生涯の中でもとりわけ劇的な転換点となった場所が京都です。

生地であった東京から逃れるように伊豆大島式根島に移住し、三年あまり漁師のような生活をしていた不染が、再び絵画の道を志して京都市立絵画専門学校に入学したのは1918(大正7)年4月。
すでに27歳になっていました。

彼はここで一気に才能を開花させ、帝展入選作を生み出したばかりか、首席で卒業するという栄誉を受けています。

 

村松篁は不染より10歳近く年下ということになりますが、ときには上村家で食事を共にするほど両者は親密な関係だったそうです。

図録の年譜によれば、二人が特に親しくなったのは1923(大正12)年頃とされています。

不染は永観堂門前あたりに住んでいたようです。

村松篁は母松園のアトリエがあった間之町竹屋町の屋敷に住んでいたと思われますから、当時荒神口にあった絵画専門学校を挟んでさかんに往来していたのかもしれません。

 

それまでの境涯や画風、好んだ題材、共に全く違う両人ですが、共通している点もあります。

ある特定モチーフへの極端なこだわりです。

村松篁が異様なまでに執心した対象は「鳥」でした。
後年、奈良の自宅内で夥しい鳥を飼育していたことは有名で、代表作の多くに鳥が登場します。

 

他方、不染鉄が特に初期において執拗に繰り返し描いた対象物が茅葺屋根の「家」です。

茅葺民家そのものを主役とした絵画はもちろん、漁村や里山など、場所は様々ですがほとんどの作品に「家」が描かれています。

逆に不染の絵にはほとんど「人」が登場しません。
描かれたとしても非常に小さく簡略化された姿で描かれる程度です。

ところが、彼による「家」だけが写された光景からは不思議なことにふんわりと静かにあたたかく「人」の気配が漂ってきます。

東京、伊豆諸島、京都、奈良、大磯と各地を転々としたこの画家は、一見、漂白を好んだ放浪の仙人がごとくイメージされますけれど、本人自身はむしろ多くの作品に丹念に描きこまれた「家」から感じられるような、落ち着いた温もりのある暮らしを希求していたのではないかと思われてきます。

 


www.youtube.com

 

さて、もう一人、不染鉄以外の画家として展覧会に作品を提供している人物が野田和子です。

不染晩年の弟子かつ養女でもあった彼女による「身辺雑記」と題された油彩画が展示されていました。
1973(昭和48)の制作ですから不染が直腸がんで亡くなる3年ほど前の作品ということになります。

半裸で修行僧のように座禅を組む不染と普段着を着た野田の姿を囲み、ガラクタのような文物や食器に調理器具、一時親交があった村山槐多の著作集などがまさに「雑記」的に描き込まれています。

戦後、結局奈良に落ち着いた不染は奈良市登大路町、つまり奈良県美のすぐ近くにあったという、ある邸宅敷地内の「あばら家」で仮寓暮らしをしていたそうです。

奈良には84歳で没するまで30年くらい定住していたことになりますから「漂白の画家」という形容は実は少し大袈裟なのかもしれません。

しかしここに描かれた「あばら家」での暮らしを想像するとやはり「定住者」というイメージには結びつかないようです。

 

晩年になると薬師寺に代表される南都寺院など当地の情景を描いた作品も多くなりますが、幼い頃に見た小石川の大銀杏や伊豆の海など過去の風景も盛んに描かれています。

この人は確かに「漂白」したのでしょうけれど、結果として「追想」のイメージを心中にきわめて豊饒に醸成させることになったのでしょう。

不染ほどの画力があればどっしりと近代家屋に居を構えることもできたのであろうに、あえて根無草のような仮住まい生活を選ばざるをえなかったのも、その追想世界があまりにも豊かだったからなのかもしれません。

そしてこの画家は内なる追想の風景を独自の幻想世界に変換し、圧倒的な技術力と周到さで表現できる才能を京都で本格的に身につけたということになります。

 

村松篁は絵画専門学校時代、当時助教授であった入江波光から「写生」の重要性を厳しく教え込まれた人です。

一方、不染鉄は「写生」ではなく「一遍上人絵伝」などの中世古典絵画の手法を吸収しつつ「観想」で描いた画家だったように思います。

しかし、アプローチが全く違う両者の絵から感じられる繊細な美観はその静謐な温雅さという点で共通したところがあるようにも感じられてきます。

 

今、不染鉄を「京都画壇の画家」という人はほとんどいないと思います。

南都の名所はたくさん描いているのに、京都については一口の水郷といったマイナーな風景ばかりで有名社寺や市中の様子をとらえた作品は見当たりません。

奈良市内という京都と至近の土地に居ながら上村松篁を例外としてほとんど京都画壇と交わることもなかったようです。

不染自身、京都はおろか中央画壇全体と距離をとっていたような人ですから仕方がない面もあります。

しかし、彼の画業が最も世間的に高く評価されていたのは京都市立絵画専門学校に在籍、卒業した直後の頃ということもできます。

彼がどういう過程で画才を急激に開花させたのか、「京都時代の不染鉄」に焦点をあてた今後の調査研究に期待したいところです。

 

行基菩薩像と不染鉄展ポスター(近鉄奈良駅前)