荒木寛畝「孔雀図」|三の丸尚蔵館「皇室の美術振興」

 

公家の書-古筆・絵巻・古文書/皇室の美術振興-日本近代の絵画・彫刻・工芸

■2024年10月29日~12月22日
■皇居三の丸尚蔵館

 

大小二つの展示室を使い分け、中世以前の書と近代以降の絵画や工芸を組み合わせるというユニークな企画です。

つい最近、2023年に国宝指定された金沢本万葉集(藤原定信筆)に代表される「公家の書」が披露されている「展示室2」の内容も素晴らしいものですが、隠れた傑作が取り揃えられていた「展示室1」の「皇室の美術振興」に今回は特に感銘を受けました。

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荒木寛畝(1831-1915)の代表作「孔雀図」が展示されています(後期 11月26日〜12月22日)。

今年は寛畝の高弟だった池上秀畝(1874-1944)が生誕150年の記念イヤーを迎えていて、板橋区立美術館や秀畝の故郷である長野県各地のミュージアムで回顧展が開催されました。
年の瀬を迎えて師匠寛畝の傑作を鑑賞し、「旧派」とされてやや傍系に追いやられてしまってきた彼らの芸術がもつ魅力を再確認することになりました。
なお、池上秀畝による「秋晴」もこの展覧会で紹介されていましたが、こちらは前期展示だったため師弟共演とまではいかなかったようです。

 

荒木寛畝「孔雀図」(皇居三の丸尚蔵館蔵)

 

荒木寛畝は天保2年に江戸で生まれた人ですから、江戸末期と明治近代の両方を生きた絵師・画家ということになります。
谷文晁系の荒木寛快(1785-1860)に学び、画才を認められて彼の養嗣子になっています。
幕末維新期における怪人的藩主、土佐藩山内容堂に気に入られ、同藩の御用絵師として活躍していましたが、主君容堂死後は、暮らしむきも豊かとはいえない中、一時洋画に転向する等、その前半生は起伏の激しいものだったようです。

「孔雀図」は1890(明治23)年に上野で開催された第三回内国勧業博覧会に出品され、二等妙技賞を受賞した作品です。

ちなみにこのとき受賞した主要作は次の通りでした(角川ソフィア文庫版 古田亮『近代日本画の歴史』P.99より)。

一等妙技賞:橋本雅邦「白雲紅樹」(東京藝術大学蔵)

二等妙技賞:荒木寛畝「孔雀図」(皇居三の丸尚蔵館蔵)、川端玉章「墨堤春暁」(東京藝術大学蔵)、巨勢小石「秋野鹿」(東京藝術大学蔵)、平福穂庵「乳虎図」(秋田県立近代美術館蔵)、野口小蘋「西王母図」(個人蔵)

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一等に選ばれた雅邦(1835-1908)の「白雲紅樹」は1955(昭和30)年、盟友狩野芳崖の「不動明王図」「悲母観音」とともに近代美術として初めて重要文化財に指定された作品です。
第三回内国勧業博覧会出品作の水準の高さが伺い知れます。

面白いのは、「白雲紅樹」は当時、声の大きい論客が揃っていた旧派陣営から「西洋かぶれ」と批判されたものの、結局「(岡倉)天心あたりに押し切られ」て一等を勝ち得たとされていることでしょう(東京国立近代美術館重要文化財の秘密」展図録P.197)。
まだまだ発言力をもっていた旧派の批判を抑えるほど、岡倉天心の存在感が強かったということなのでしょうけれども、逆に天心がいなければ、旧派を代表する荒木寛畝の「孔雀図」が一等を獲得していたとしても不思議ではなかったといえるかもしれません。

 

荒木寛畝「孔雀図」(部分)

 

実際、雅邦「白雲紅樹」がもつ幽玄にして繊細な表現も非常に素晴らしいものではあるのですが、寛畝「孔雀図」が発する異様な迫力と完成度の高さは圧倒的であり、「一等」「二等」というより「別格」という印象を受けます。
もし「孔雀図」が、重要文化財指定の対象外とされてきた宮内庁所管品でなかったならば、すでに指定を受けていても少しもおかしくはない傑作です。
現在この作品は文化庁に移管されたわけですから、早晩、指定候補として検討されるのではないかと期待しています。

荒木寛畝は先述の通り、土佐藩御用絵師を辞した後、一時西洋画に転向していた時期があります。
古田亮によると、その習得はかなり本格的なものだったようです。
チャールズ・ワーグマン(Charles Wirgman 1832-1891)から油彩画の技法を学んだ寛畝の腕前は相当なもので、あの高橋由一や五姓田義松と並んで天皇肖像画の制作を委託されたこともあります。
しかし、第二回内国勧業博覧会以降は日本画に復帰、第三回の「孔雀図」で本格的な復権を果たしたことになります。
博覧会後この絵は宮内省買い上げとなっています。
このとき寛畝はすでに60歳となっていました。

 

荒木寛畝「孔雀図」(部分)

 

三の丸尚蔵館の解説では、西洋画を学んだ荒木寛畝の特徴が「孔雀図」にも現れていると指摘されています。
背景の水墨に空気遠近法が使われ奥行感が表現されていることがその理由です。
しかし、これも古田亮が「寛畝の場合、洋画と日本画の混淆はみられない」(『近代日本画の歴史』P.65)と端的に指摘しているように、実物をみると「孔雀図」から「西洋」の雰囲気はほとんど感じられません。

克明な線と彩色で徹底的に細部までこだわって描かれた孔雀の姿は、円山応挙のそれを数倍高画質化した上で独特のスタイリッシュさも追求されています。
写実と装飾性が渾然一体となっているのです。
西洋画的な立体感はむしろ先に触れた橋本雅邦「白雲紅樹」の方が濃厚であり、そこが旧派論客に「西洋かぶれ」と批判されたわけです。
西洋画を本格的に学んだとはいえ、荒木寛畝には新派風に西洋のスタイルを取り入れるつもりはおそらくなかったのでしょう。
そうした姿勢が旧派を代表する大家としてこの画家の名を押し上げていくことになった一方で、「忘れられた巨匠」的な立ち位置に落ち着かせてしまったのかもしれません。

 

小坂芝田「秋爽」(部分・皇居三の丸尚蔵館蔵)

 

日本美術院系の新派と日本美術協会系の旧派、両派の対立は次第に先鋭さを増し、1912(大正元)年に開かれた第六回文展からはついに旧派を「第一科」、新派を「第二科」と分離することになります。
この企画では、その第六回文展の「第一科」つまり旧派として出品され二等を受賞し宮内省買い上げとなった小坂芝田(こさか しでん 1872-1917)による十曲一隻の大作「秋爽」も展示されています。
画面一杯に広がる山水がみせる雄大さと繊細さを兼備した景色が圧巻でした。
寛畝の「孔雀図」ともども「旧派」の美しさを体感できる作品です。

周知の通り、やがて日本画はほぼ新派によって主流が形成されていくことになるわけですが、旧派への目配りを意識していた宮内省による「買い上げ」によって傑作優品の数々が尚蔵館に残ることになったともいえます。
「皇室の美術振興」がもつ面白い側面が感じられた展覧会でした。

なお今回は写真撮影が全面的に解禁されています。
平日の午後、会期末近くではありましたが、目立った混雑はなく快適に鑑賞することができました。

 

「皇室の美術振興」展示風景より