夏の間は暑苦しくてとても聴くことができなかったブラームス。
重厚なコンチェルトの1番もそろそろ観賞に耐える気候になってきたようです。
ルドルフ・ゼルキン(Pf)
ジョージ・セル指揮 クリーヴランド管弦楽団
SONY SICC 10323-4 (SACD ハイブリッド)
「ジョージ・セル没後50年リリース」と銘打たれていますが、もともとソニー・クラシカルはここ数年セルのSACD化を積極かつ継続的に進めていますから、セル没年の1970年に絡めてこのディスクを企画したというには無理がありそうです。
当初5月に発売が予定されていた商品。
コロナの影響で発売が9月に延期されました。
ようやくタワーレコードの店頭に並びはじめたので購入してみました。
他に同2番とモーツァルトのピアノ協奏曲19&20番が収録された2枚組。
タワーの店頭クラシック・ヒットチャートでは9月下旬現在、1位の売れ行きだそうです。
ルドルフ・ゼルキンのご子息ピーターが今年2月に亡くなりました。
彼は「ピーター・アドルフ・ゼルキン」の名で父を追想する文章を書いていて、このディスクのライナー・ノートに和訳が掲載されています(SONYから以前発売されたルドルフ・ゼルキン コンプリートBOXのために書かれたもの)。
痛ましいことに、ピーター自身のRCAコンプリートBOXへの寄稿は間に合わなかったそうです。
このSACDはセル没後50年というより、不謹慎なようですが、ゼルキン父子を偲ぶ企画といった方が良いのかもしれません。
SACD化は成功していると思います。
この1番の協奏曲は1968年7月の録音。
後のセル没年である1970年4月に、同じセヴェランスホールで録音されたEMIのドヴォールザーク8番やシューベルトのグレイト(いずれもSACD化済み)よりも響きのニュアンスが豊かに再現され、SACDらしい奥行き感の表出が達成されています。
特に2楽章が素晴らしく、色彩を抑えつつも必要十分な美しいソノリティで音符を連ねるゼルキンのピアノを、さらに抑えに押さえ込んだクリーヴランドの弦や木管で包み込んでいくセルの支配力。
その生み出す響きの遠近法に唖然とさせられてしまいました。
単にモダニストと括れない、晩年のセルが到達した音楽そのものに深沈としていく指揮。
その異様な気配を再現してくれていて、圧巻です。
ゼルキンはしばしば「私はピアニストというよりは音楽家だと思う」と発言していたそうです(ユルゲン・ケイティングの「炎の天使・ルドルフ・ゼルキン」より・ライナーノート内に掲載)。
こうした発言は、なんとなく技術軽視の「魂の、系」的胡散臭さを感じさせてしまい、実際、ゼルキンを技巧派と評していた人は少ないと思います。
この演奏でも細かい指回りが要求されるパッセージでは現在のコンクール水準でみると「不合格」とされそうな箇所も散見されます。
しかし、ここに聴くブラームスには技術面の弱さを恣意的な感情の無軌道な発露等によって誤魔化すようなところは微塵もなく、何より、形式を軽視する箇所が皆無です。
余計な不純物を見事に取り除いた上で、音楽の格調高さだけが際立つ演奏。
シューベルトの一部のソナタでは時にゴツゴツとし過ぎている表現もみられるこのピアニストですが、セルとの共演では指揮者の眼光に呼応してか、全く誇張が感じられず、そこにその音たちがあるべくしてあるように弾かれます。
ジョルジョ・モランディの絵画に通じるような静かでいて存在そのものが響いてくるような音楽。
聴くたびに味わいが増す演奏とはこのような録音を指すのではないかと思いました。