有名な池泉庭園を南に抱えながら東西に長く建物が連なる醍醐寺 三宝院。
その一番奥に「本堂」があります。
ここは「護摩堂」、あるいは「弥勒堂」とも呼ばれ、現在も実際、弥勒菩薩の前で護摩が焚かれる場所。
原則非公開で、寺の主催による特別拝観でも本堂内に立ち入ることはできません。
外側から中の護摩壇や本尊などを眺めることができるだけです。
今年の「京の冬の旅」(2022年1月8日〜3月18日)では、この三宝院本堂の内部を27年ぶりに公開。
滅多にない機会なので覗いてみることにしました。
藁葺屋根が印象的な「純浄観」のすぐ東隣に「本堂」があります。
桁行5間、梁間3間、入母屋造の屋根に桟瓦が葺かれています。
江戸時代後期、1770(明和7)年から1773(安永2)年にかけて建立されたことが寺の資料に残されているそうです。
もともと1598(慶長3)年に建てられていた旧護摩堂の規模を拡大して再建されたもの。
重要文化財です。
入母屋の華麗な装飾が印象的ですが、周囲は障子窓で囲われていて、採光に配慮がなされているため室内に重苦しい雰囲気はありません。
堂の最も奥に鎮座しているのが、本尊、弥勒菩薩坐像です。
快慶の作。
像の非常に近いところまで進んで鑑賞することができました。
護摩が焚かれた際に堂内を漂った煤のようなものの付着まで視認することができます。
適当な画像が見当たらないので、像を捉えたYouTubeのリンクを以下に置きますが、再生すると「オン・マイタレイヤ・ソワカ」と弥勒菩薩を唱える真言が延々と流れるので注意してください。
この像、もともとは上醍醐の「岳東院」という建物の中にあった像を、醍醐寺座主義演が1599(慶長4)年、三宝院に移したと伝わります。
1192(建久3)年に彫られた鎌倉初期の仏像彫刻(重文)です。
像を造らせた人物は当時の醍醐寺座主勝賢。
彼は、信西の息子だったこともあり、後白河院と近い関係にありました。
建久3年3月13日、院が崩御した際、その場に立ち会っていたそうです。
このことから、快慶作の弥勒菩薩は後白河法皇追善のために彫られた可能性が高いと指摘されています。
像の高さは112センチ。
全体に金泥が塗られ、膝のあたりには截金模様が残っています。
彫像に金泥を施すこの技法は当時の最先端であり、この弥勒菩薩像はその極く初期の例とされるようです。
年月を経て金の輝きはかなり失せていますが、代わりに一般的な木彫にはみられない、マットな質感が独特の風合いを漂わせています。
贅沢に螺鈿を嵌め込んだ豪華な台座は、像の製作から約430年後、1625(寛永2)年に補作されたもの。
快慶像と見事に調和しています。
仏師快慶最初期の作とされていて、正確に確認できる彼の像としては、ボストン美術館蔵の弥勒菩薩立像に次いで二例目となるのだそうです。
2017年、奈良国立博物館で開催された「快慶展」では、この二作が同時に並んで公開され、話題になりました。
非常に均整のとれた像で、顔の造作から衣紋に至るまでほとんどが左右対称に整えられています。
迫力に富んだ写実の天才だった運慶と比べると、理想的な美観を重視した快慶のセンスが特にその顔の表情から伝わってきます。
切れ長の眼は若々しく、かなりのイケメンとみてよいのではないでしょうか。
後白河院が関与した仏像には美男系が多いともいわれますから、法皇追善の作としていかにもふさわしい造形なのかもしれません。
初期から快慶らしい端正で古典的な彫像スタイルが確立されていたことがわかる傑作と感じました。