平治物語絵巻 常盤巻|アーティゾン美術館

 

はじまりから、いま。
1952ー2022 アーティゾン美術館の軌跡—古代美術、印象派、そして現代へ

■2022年1月29日〜4月10日

 

アーティゾン美術館が開館(2020年1月)から2周年を迎え、新旧織り交ぜた大規模なコレクション展を開催しています。

ブリヂストン美術館時代からお馴染みの名作に加え、開館後に収蔵した鴻池朋子森村泰昌の新作まで。

質量共に圧倒的に素晴らしく、今や都心の私設美術館として頭抜けた存在であることを確認できると思います。

事前予約制。

混雑害を気にせず快適に鑑賞できます。

写真撮影もOK。

www.artizon.museum

 

意外な新蔵品の初公開がありました。

平治物語絵巻 常磐巻」(重文)です。

石橋コレクションでは主に琳派が日本美術収蔵品の中心だったはずですが、中世絵巻の名品まで守備範囲に含めつつあるようです。

 

常磐巻」は、有名なボストン美術館東博などが所有する国宝絵巻とは別系統の作品。

鎌倉時代、13世紀後半に描かれたと推定されています。

会場では山口晃による解説ムービーをスマホで観ることができたのですが、面倒になり端折ってしまいました(後悔)。

図録に解説があると思っていたら、ほとんど作品情報が書かれておらず、絵巻に描かれている内容の詳細がよくわからないので調べてみました。

以下は主に『続日本絵巻大成』第17巻(中央公論社)を参考に記載しています。

 

非常に長い作品なので期間中、3回に分けて展示されています。

私が観たときはその最後の部分が広げられていました。

 

常磐巻」の由来は、絵巻の前半部分に常盤御前に関した内容が描かれていて、作品が収められていた箱の蓋にも「伏見常磐」と書かれていたことにあります。

 

しかし、後半は常盤とはまったく関係のないエピソードが描かれています。

 

平治の乱の背景には、後白河上皇院政を推す派と二条天皇親政派との対立があったとされています。

親政派の大物が新大納言藤原経宗別当藤原惟方でした。

常磐巻」後半で描かれているのは、その経宗と惟方が失墜していく劇的な場面です。

 

信西を排した藤原信頼源義朝が討ち取られ、武力対決としては、一応、後白河上皇側が勝利していたわけですが、経宗・惟方一派は二条天皇親政を画策し続け、戦闘終結後も上皇に圧力をかけようとします。

 

八条堀川にあったという皇后宮大夫藤原顕長の邸宅に渡御していた時、後白河上皇は桟敷から市中の往来を見物することを楽しみとしていました。

ところが内裏からの使者により突然その桟敷の窓が塞がれてしまいます。

怒った上皇は嫌がらせの犯人と目された経宗・惟方両名を捕らえるよう、平清盛に命じました。

今回開示されていた絵巻の部分はここからスタートします。

 

 

清盛たちが向かった先は経宗・惟方がいた場所、内裏です。

つまり天皇の住まいに直接兵を差し向けるという、結構、とんでもないことが発生しています。

陰明門の扉を打ち破って宜秋門の中庭に乱入する清盛軍の兵馬が勢いよく描かれています。

中央の黒っぽい馬に乗っている人物が平清盛とみられます。

 

 

続いて女官たちがいる後涼殿前庭での激しい攻防戦が描かれていきます。

藤原経宗配下の武者が応戦しますが、突然の乱入に鎧をつける間もありません。

しかし、ただやられっぱなしではなく、清盛方の武者にも損害を与えていきます。

清盛の郎党雅楽助基光は矢が左眼に刺さり、それを抜こうとしていますが、うまくいかず、どっと血飛沫が目から放たれています。

同じく清盛方の前武者所信康は額を射抜かれ落馬。

 

 

中庭ではさらに激しい死闘シーンが連続します。

腹を刺されながらも、敵の首めがけて刀を差し込む経宗方武者の執念。

烏帽子狩衣姿で御所への狼藉者をとらえ、その首を切り落としているやや上位層とみられる武者の活躍も描かれています。

 

月岡芳年の血みどろ絵があらためて注目を浴びていますが、この鎌倉絵巻も無惨さでは引けをとっていません。

 

画面右手から押し寄せる清盛軍とそれを左手から押しとどめようとする経宗・惟方の武者たち。

非常に「動き」を感じさせる構図。

筆致は颯爽としていて、細部の描写にも抜かりはありません。

血飛沫をはじめとする彩色も美しく残っています。

おそらく今に残る「常磐巻」の中で一番見応えがある場面がこの内裏を舞台とした戦闘シーンでしょう。

 

この後、乱闘に恐れ慄き逃げ惑う後涼殿の女房たちの様子が描かれ、御所内の場面は区切りがつけられます。

なお、後涼殿のすぐ隣には清涼殿があります。

二条天皇が清盛による乱入をどうみていたのかは、描かれていません。

 

 

 

 

 

場面は変わって院御所の門前。

一仕事終え、松明の炎で暖をとる兵士たちの姿がユーモラスにとらえられています。

殺戮場面との落差が即物的で、いかにも中世絵画らしい魅力が感じられると思います。

 


抵抗も虚しく経宗・惟方の二人は清盛に捕らえられ、後白河上皇の前に引き出されました。

怒りがおさまらない上皇は両名に拷問を加えた上、死罪を命じます。

嫌がらせをされた程度にしては重い扱い。

しかし、もともと後白河は二条天皇親政までのつなぎとして皇位についた立場であり、武力的には決着がついていたにせよ、正統である二条天皇を担ごうとする経宗・惟方一派を見過ごすことができなかったのでしょう。

そしてここに登場するのが、急遽馳せ参じた関白藤原忠通です。

彼は「異朝は知らないが、我が国では嵯峨帝の御代から25代、死刑を実施していない。」と御簾に隠れた上皇へ涙ながらに訴えます。

これが功を奏して藤原経宗阿波国藤原惟方長門国への流罪で落着。

経宗・惟方失脚のエピソードはここで一段落となります。

 

ただ、この後、一瞬だけ別のお話が続きます。

 

 

源頼朝が簀子の上で泣いています。

これは池禅尼による助命嘆願が清盛によって聞きいれられ、尼からそれを伝えられた頼朝の姿を描いたもの。

戦闘シーンとは違う、寂寞とした風情が漂っています。

 

絵巻には烏丸光広による極書が添付されています。

それによれば、詞書を仁和寺の法守親王が、絵を土佐某が描いたと書かれていますが、裏付けはありません。

『続日本絵巻大成』では「常磐巻」の絵師を「伝 土佐伊予守隆成」としています。

 

国宝「平治物語絵巻」に比べると「常磐巻」は簡略化された表現が多く、やや密度が薄い感じを受けますが、細部をよく観てみると、非常に繊細な筆遣いが感じられると思います。

特に戦闘シーンのリアルな表現は情報量も多く、絵空事を超えた迫力に満ちています。

見応えがありました。