マーメイドフィルムが主催する「ジャック・リヴェット映画祭」が全国各地のミニシアター系映画館で開催されています。
「メリー・ゴー・ラウンド」(Merry-Go-Round)は1981年の公開(制作は1979年)。
日本での劇場公開は今回が初めてなのだそうです。
ということは「劇場以外」では公開されたことがありそうですが、私は初見でした。
まず驚いたのはその映像。
おそらくシーンの大半がいつものリヴェット作品と同様、自然光のもとで撮影されているのですが、デジタルリマスターの成果なのか、とても美しく、かつ情報量も多い。
パリ郊外あたりと思われる、ありきたりな風景が、まさにありきたりなまま写されていて、全く作為的な色使いが感じられません。
周到に同時集音されたサウンドトラックとあいまって、奇妙に自然な臨場感が再現されています。
163分。
リヴェットの作品としては普通の長さですが、それでも長いことは長いです。
筋書きも混乱気味。
しかし、不思議と見入ってしまったのは、独特の「現場感」が映像そのものから漂っていたからかもしれません。
観ている間はかなり混乱したのですが、事後的に頭の中を整理すると、この映画が案外わかりやすく構成されていたことに気がつきました。
三つの要素から構成されています。
一つは「本編」ともいえる、遺産相続をめぐる乱雑なサスペンス・ストーリー。
マリー・シュナイダーとジョー・ダレッサンドロのダブル主演で展開されるリヴェット風ロードムービーの一種といえます。
シュナイダーは撮影当時20歳代後半ですが、かなり痩せていることもあって、いまだにティーンエイジャー的不良少女オーラを発散させています。
ことあるごとに煙草を吸い、終始不機嫌。
彼女の役名は「レオ」です。
でもこの映画のタイトル「メリー・ゴー・ラウンド」のメリーは明らかに、「マリー」・シュナイダーにあてつけたものでしょう。
他方、ダレッサンドロは無駄にイケメンな分、一本調子な演技が際立っていて、滑舌も悪い。
NYからパリに呼びつけられた役柄が設定されていて母国語である英語を使うことが許されているにもかかわらず。
不貞腐れたマリーと不器用なエトランジェであるジョーによる探偵ごっこに、現実感を欠いた犯罪組織が絡み合うという「本編」は、まあ、観ていて辛いというか、うんざりするような展開なのですが、そこをカメラワークとサウンドトラックできっちり「映画」に仕上げているところが逆にリヴェットらしいところなのかもしれません。
この作品でマリー・シュナイダーは途中でなんと降板してしまいます。
しばしばリヴェット作品に登場するエルミーヌ・カラグーズ (Hermine Karagheuz) が代役的に出演し、穴を埋めています。
結構、ヤバめに破綻している「本編」をからめ手から支えているのがもう二つの要素です。
一つは、ただひたすら主人公たち二人を「走り続けさせる」という、別に撮られた幻視シーン。
演技に問題があるダレッサンドロの活用方法をリヴェットは途中で思いついたのでしょうか、延々と森の中を何かに追いかけられるように走り回るシーンを撮っています。
シュナイダーが降板した後を受けたカラグーズが体当たりの逃走シーンを引き受け、ダレッサンドロとのチェイスを繰り広げます。
「本編」の混乱をさらにかき混ぜながら、実は、純粋にこの映画が「追いかけっこ」の物語であるということにしてしまう、リヴェット流の「おさめかた」がみられます。
さらに、もう一つ、「本編」を崩壊の危機から救っているのが、「音楽」です。
バール・フィリップスのベースとジョン・サーマンによるバス・クラリネットが奏でるやや前衛に傾いたセッション。
これが素晴らしいパフォーマンスで、聴かせます。
全編に不穏で深淵そうな空気をもたらせ、ぐちゃぐちゃになりそうな「本編」の額縁をきっちりかためて、もう一つの「ダブル主演」を演じているかのよう。
この音楽シーンは本編とは全く関係なく撮られたものです。
さすがのリヴェットも空中分解気味の本編と走り回る幻視シーンだけでは心許なかったのでしょう。
音楽によって「おさめる」職人技。
なにしろ主役二人の演技がチグハグなので、リヴェット作品の持ち味である軽快さがほとんど感じられません。
やっとリヴェットらしくなるのは最後の方、エセ霊媒師兼偽父親役のモーリス・ガレルが出てくるとフッと映画の重心が軽くなったように感じました。
ジョー・ダレッサンドロは地面を走るだけではなく、バイクでも走り続けます。
正面からバイクに乗った彼をとらえた映像は、この作品の直後に撮られた傑作「北の橋」のパスカル・オジエに被っていきます。