■2022年3月5日〜7月4日
■高島屋史料館企画展示室
昨年2021年8月、日本橋にある髙島屋東別館が国の重要文化財に指定されました。
これを記念して、建物3階の高島屋史料館によって企画された今回の展示は、かつて商都大阪を彩った百貨店興亡史の趣をも帯びていて、東別館の魅力に加え、別の意味でも楽しめる内容になっています(無料)。
規模は大きくありませんが、高島屋史料館所蔵品だけでなく、早稲田大学、国立国会図書館、ライバルともいえる百貨店各社から資料を取り寄せての本格的な大阪百貨店史展に仕上げられていました。
高島屋東別館が重文指定された2021年には、丹下健三による日本モダニズム建築を代表する傑作、「代々木競技場」も指定を受けています。
同年5月に公表された文化庁の答申をみてみると、代々木の第一、第二体育館が指定されたその「指定基準」は、「意匠的に優秀なもの」「技術的に優秀なもの」となっています。
一方、髙島屋東別館の指定基準は「歴史的価値の高いもの」。
壮麗な外観ももちろんその価値に含まれてはいるわけですが、何より、この建物がまとってきた、その歴史性に重きが置かれた評価ということができます。
1934(昭和9)年に建設され、1937(昭和12)年には大規模な増築が実施されています。
「戦前の百貨店としては最大級」の規模だったのだそうです。
重文指定におけるこの建物の正式な名称は「旧松坂屋大阪店(髙島屋東別館)」。
夏目漱石の義弟としても知られ、主に名古屋を中心に活躍した鈴木禎次の設計による貴重な現存作としての価値も勘案されての指定です。
日本橋・堺筋にあったこの松坂屋大阪店は、1960年代、天満橋に移転。
近所の難波・御堂筋に大阪店を構えていた高島屋が、居抜きでこの建物を取得、現在に至っています。
その高島屋は、戦前、やや大阪での拠点づくりに出遅れ、メインストリートであった堺筋の中心エリアを他店に押さえられていたため、1922(大正11)年、長堀橋に店を構えることになります。
本展は、まず、大阪における高島屋百貨店の第一号、この長堀店の紹介からスタートします。
非現存の長堀店を設計したのは、丸の内の明治生命館などで有名な岡田信一郎。
古典的な様式と機能美を兼ね備えた名作だったことが、その模型や図面から推測できます。
しかし、高島屋には先見の明もありました。
大阪市長 関一による御堂筋の拡張、地下鉄の敷設などをみこし、巨額を投じて開店にこぎつけたばかりの長堀店に早々と見切りをつけ、現在の南海なんば駅を抱え込む巨大店舗の建設を計画。
長堀店の開業からわずか10年後、1932(昭和7)年、難波に大阪店(当時の名称は大阪南海店)を全店開店させ、1939(昭和14)年には長堀店をここに統合してしまいます。
堺筋から御堂筋へ。
大阪のメインストリートが劇的に遷移していく動きに対し、高島屋は抜かりなく手を打っていました。
この大阪高島屋は今でもミナミにおけるランドマークの一つとして堂々とした威容を誇っています。
他方、天満橋に移転した松坂屋は、気の毒なことに商流を上手くつかむことができず、結局、撤退。
現在は京阪系のショッピングモールになっています。
天満橋のすぐ隣り、北浜高麗橋にあった横河民輔設計による三越大阪店も現存していません。
一方、御堂筋に店を構えた大百貨店の建築も数奇な経緯をたどることになります。
村野藤吾が設計したそごうはすでに跡形もなく姿を消しています。
ファサードや内装の一部を残してはいるものの、ヴォーリズによって建てられたアールデコの殿堂、大丸心斎橋店の名建築も実質解体されてしまいました。
高島屋東別館内部の大半は、現在、ホテルやフードコートになっています。
豪華な大階段や古風なエレベーターが往時の美観を伝えてくれてはいますが、その用途としてみた場合、もはや「百貨店」とはいえません。
しかし、結局、大阪に残った「百貨店建築」の内、おそらく最も美しく保たれた建物が、この「旧松坂屋大阪店」ということになってしまったわけです。
偶然だと思いますが、現在、大阪中之島美術館で開催されている「みんなのまち 大阪の肖像」(第1期2022年4月9日〜7月3日)で、この松坂屋大阪店にちなんだ作品が展示されています。
前田藤四郎(1904-1990)によるリノカット版画「デパート装飾」。
この関西版画界の大御所は、1927(昭和2)年、神戸高等商学校(現 神戸大学)を卒業後、日本橋にまだあった松坂屋に入社。
広告部に配属され、ショーウィンドーのデザインなどを担当していました。
前田が1930年代に手がけたこの版画は、当時の華やかな雰囲気をかなり大胆なデザインで伝えてくれています。
旧松坂屋大阪店の設計者、鈴木禎次の本拠地は名古屋。
大阪ではありません。
その彼に設計を依頼した元の持ち主、松坂屋は大阪市内から撤退。
そして、買い取った高島屋がこの建物をデパートとして使わなかったことが、逆に保存へとつながったともいえます。
さまざまな歴史の皮肉を感じる企画展でした。