先日、ヴェルナー・ヘルツォーク(Werner Herzog 1942-) 監督による「ノスフェラトゥ」(Nosferatu The Vampyre,1979)の回顧上映を鑑賞しました。
以下、備忘録です。
ムルナウ監督による古典的無声映画「吸血鬼ノスフェラトゥ」(1922)のリメイクとして知られている作品です。
夢にでも出てきそうなくらいインパクト絶大な、クラウス・キンスキーによる「白塗りのドラキュラ」でも有名な映画でしょう。
しかし、じっくり見直してみると、主役の扱いだけでなく、とても細かいところまでムルナウ作品をストレートに引用していることに気がつきます。
ハーカー夫妻が飼っている子猫、パン切りナイフで指を切ってしまったハーカーと伯爵のやりとり、ハーカーがシーツをちぎってロープを作り城から脱出するところ、ドラキュラを乗せてしまった船がたどる悲劇などなど、ほとんどムルナウの映像を直接的に引用しているようにも見えるほど徹底しています。
単純なリメイクというより、ヘルツォークによるムルナウへの大きなリスペクトが込められた作品であることがディテールからずしりと伝わってきます。
ただし、ストーリーの終盤はムルナウ作品とは大きく内容が変わります。
新しい吸血鬼の末裔として生まれ変わった、というか「死に変わった」ジョナサン・ハーカーが馬に乗って走り去るシーンは、不吉な開放感に満ちています。
ムルナウへのオマージュという意味合いがかなり強い作品です。
とはいえ、この映画にもヘルツォーク独特の「生っぽさ」が随所に嵌め込まれています。
映画冒頭に登場するおびただしいミイラ。
これはメキシコ、グナファトにある有名なミイラ博物館に保管されている本物のミイラをヘルツォークが借り出して撮影したものです。
あたかもドラキュラ伯爵の餌食になった村人たちの成れの果てのように見えてしまいますが、撮影されているミイラ自体は、まったくヨーロッパ人とは関係ありません。
しかし、ミイラの成り立ちを考えると、実は、「吸血鬼」と意外な共通点があることに驚きます。
ミイラ生成の必要条件は、まず、「乾燥」です。
死後人体に残っている水分の50%以上を直ちに抜かないと腐敗菌が増殖しすぎて、ミイラになることは困難といわれています。
水分とは即ち血液です。
急速に血が吸い取られたヴァンパイアの犠牲者たちがミイラ化することは、実に理にかなったことともいえるわけで、ヘルツォークによる冒頭演出は単に出鱈目のファンタジーホラー効果を狙ったものではないともいえます。
ヘルツォークらしい「生っぽさ」の演出は次々と現れます。
ジョナサン・ハーカー(ブルーノ・ガンツ)をドラキュラのもとに向かわせるレンフィールド役のローラン・トポールによる、地なのか演技なのか曖昧にしか感じられない狂気じみた甲高い笑い声。
カルパチアへの遠い入り口と思われる村の宿に出入りするロマたちのヴァナキュラーな語り。
そして、身体が痒くなってきそうなネズミたちの大群。
小動物の海を歩くイザベル・アジャーニが少し気の毒になってきます。
ドラキュラの来訪を受けてしまったため、その眷属たちがもたらしたペストによって死の街と化した場所。
そのロケに使用されたのは今やフェルメールの都として大人気の町、デルフトです。
観光名所となっているマルクト広場を夥しい棺桶の葬列が覆う場面は、よく撮影許可がおりたものと思われるくらい禍々しい空気が漂っています。
ムルナウが使ったドイツ、ヴィスマールでの撮影ができなかったため、オランダが主要なロケ地に選ばれたそうですが、結果的に、運河をはじめ「海」の近さが、ムルナウ版の雰囲気とは違った美観をこの映画に与えているように思います。
そして、音楽。
冒頭のミイラシーンにはじまり、随所に使われている奇妙に異教的な楽曲は、ポポル・ヴーによる一種のアンヴィエント音楽です。
単純な二つの音がゆっくり長く下から上へ上昇していくだけの旋律。
これがクセになりそうなくらい見事に画面と結合し、映画の世界観を支えています。
ハーカーがドラキュラの城に向かうため踏破しようと挑む山岳地方の風景に被る音楽にはワーグナー「ラインの黄金」の冒頭が採用されています。
ハ音が持続するこの部分は、「ニーベルングの指輪」全体の開始を象徴する「自然」そのものの響き。
ヘルツォークは、ライン河が具体的にうねり出す音楽の直前あたりまでを使い、原初的な雰囲気を映像に与える効果を狙っているようです。
使われた音源は、ゲオルグ・ショルティ指揮VPOによる有名なDECCAの「指輪」です。