フランソワ・オゾン「苦い涙」の多層構造

 

フランソワ・オゾン(François Ozon 1967-)監督の最新作、「苦い涙」(Peter von Kant, 2022)がこの週末から各地のミニシアターで公開されています。

 

傑作、といえるほどの感想は、正直、もてなかったのですけれど、後からジワジワとその「構造」を訴えかけてくるようなところがある映画と感じました。

以下、雑感です。

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主に三つの「フレーム」あるいは「層」を持っている作品と感じました。

 

一つ目のフレームは、言うまでも無く、この映画が原案としている、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー(Rainer Werner Fassbinder 1945-1982)の作品、「ペトラ・フォン・カントの苦い涙」(Die bitteren Tränen der Petra Von Kant, 1972)です。

 

「ペトラ・フォン・カントの苦い涙」(以下「ペトラ」)は、もともとファスビンダーが書いた戯曲、つまり舞台作品がベースになっています。

オゾンの「苦い涙」も、その語法は映画的というより、かなり「演劇的」です。

登場人物たちは澱みなく多量の台詞を展開していきます。

日常の場面として見た場合、明らかに不自然なのですが、オゾンは映画の冒頭から、これが「演劇」にかなり傾いた映画であることを具体的なイメージとして観客に差し込んでくるので、不思議とわざとらしさはあまり感じられません。

 

冒頭、ウェス・アンダーソン風の書割的イメージで、舞台となる映画監督の住まいとそれを取り巻くケルンの眺望が写し出されます。

助手役のカール(ステファン・クレポン)が開くカーテンが、そのまま「舞台の幕」になっています。

ここから、ほとんど外界と結びつかない極端な室内劇の世界に遷移します。

 

プロットも女性から男性への切り替えなど設定変更があるものの、概ね、「ペトラ」の内容が尊重されているようです。

 

舞台演劇的語法、室内劇としての強い外観、そして、筋書きの援用。

まずこうした「フレーム」が、ファスビンダーの「ペトラ」によって嵌め込まれます。

これが「第一層」です。

 


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二つ目のフレーム、層は、「ファスビンダー自身」、です。

 

映画の冒頭、ひどく印象の悪い目つきをした男の写真が掲示されます。

そしてエンドクレジットの最後、ハンナ・シグラと写るでっぷりとしたサングラスの中年男。

 

どちらもライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの肖像です。

この人は37歳で自滅的に亡くなっているのですが、写真からは実年齢をはるかに越えた「晩年」の人相が漂ってくるように感じられます。

ドゥニ・メノーシェ演じる主人公の映画監督、フォン・カント(これも実に風変わりな名前です)は、明らかにファスビンダー自身がモデルとなっています。

40歳頃という設定ですが、実年齢以上に不健康な姿態を露わにし、終始ジン・トニックを飲み続けながらタバコをふかせるフォン・カントは、おそらく晩年のファスビンダーそのもののイメージなのでしょう。

 

彼に目をつけられて恋人となる「アミール・ベンサレム」は、ファスビンダーと関係を持った二人の男性、エル・ヘディ・ベン・サーレム(El Hedi Ben Salem)とアルミン・マイヤー(Armin Meier)が合体した名前のように見えます。

 

オゾンは「ペトラ」の女性主人公を男性に置き換えただけでなく、「ファスビンダー自身」を「苦い涙」のフレームとして強烈に接着し、「ペトラ」に「ライナー」を組み込んでしまいました。

これが二つ目のフレーム、「第二層」ということになります。

 


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三つ目のフレームは非常にわかり難いのですが、「フランソワ・オゾン自身」の投影です。

彼は、「ペトラ」という第一層と、第二層である「ファスビンダー自身」という二つの構造体を垂直に貫くように自らの視点そのものを第三層として巧妙にはめ込んでいます。

演劇的枠組みにファスビンダーのイメージというコンテンツを接合することで、まるで「"ペトラ"・フォン・ファスビンダー」ともいえる映像世界を創出しているかのような錯覚を観客に与える、その練達の映画テクニック。

ハンナ・シグライザベル・アジャーニという、とてつもない重さを持った役者を周到に配して、二層の接着剤としているところにもオゾンの円熟芸が見られます。

 

しかし、この第三層、「オゾンの投影」こそ、後になってジワジワと、本当の、この映画の面白さを伝える部分でもあるように思えるのです。

 

野生味と繊細さを同居させたアミール役を演じるハリル・ガルビアは撮影当時23歳。

役柄の設定そのままの年齢です。

本格的な映画出演はこの作品が初めてなのでしょう。

「Summer of 85」のフェリックス・ルフェーヴルやバンジャマン・ヴォワザンとは系統が違い、オゾン自身というよりもファスビンダーの「好み」を想像して優先した配役と見られますが、 当然、監督の強い関与によって選ばれた俳優と思われます。

 

何が言いたいかというと、ひょっとすると、フランソワ・オゾン自身、この「苦い涙」を撮影している「映画監督」として、ある意味「ペーター・フォン・カント=ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー」と同一の存在となり、撮影中、自らを彼らに投影していたのではないか、こんな想像をしてしまったわけです。

 

非常に洗練された構造体を持った映画です。

だからこそ、そこにオゾン自身の隠された「視点」の存在を勘ぐりたくもなってくるのです。

 

アミールに対する「所有愛」も、カールとの「関係愛」をも失ったフォン・カントに最後まで注がれる愛は、結局、ハンナ・シグラ演じる老母のそれだけなのですが、これもやがては消える去ることを息子は知っています。

フォン・カントが流した苦い涙の味を、オゾン自身がしっかり自覚しているからこそ、この映画は後からジワジワくるのかもしれません。

 

かなり妄想まじりの雑感でした。

 

カーチャ・ノヴィツコヴァ「近似ハシビロコウ」(ケルン・ルートヴィヒ美術館蔵)

 

 

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