ゴダール「パッション」にみる「絵画への苛立ち」

 

昨年91歳で亡くなったジャン=リュック・ゴダール(Jean-Luc Godard 1930-2022)の追悼映画祭が各地のミニシアターで開催されました(マーメイドフィルム主催 コピアポア・フィルム配給)。

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「パッション」(Passion 1982)もこの映画祭でとりあげられた一本です。

 

私は、もちろん、ゴダールの全作品を鑑賞しているわけではありません。

しかし、これほど彼の「苛立ち」がそのまま映画として表出されてしまっている作品も珍しいと思います。

少なくとも今回上映された9作品中、ゴダールの「苛立ち度」という点では、群を抜いています。

 

冒頭、ラヴェルによる、この作曲家が創造した最もかっこいい音楽、「左手のためのピアノ協奏曲」が不穏な低音を響かせる中、青空に一筋の飛行機雲が生成されていく情景が映し出されます。

この映画の中で、ゴダールが本当は撮りたかったと思われる「絵画としての映画」として成立している、ほとんど唯一といっても良い場面が、実は、この冒頭部分です。

これ以降、明るい青も澄み切った白も消え、終始、陰鬱に灰色の色調が支配する冬の殺伐とした光景が続き、映画は「絵画」からどんどん遠ざかっていきます。

 

ゴダールはどうしてこれほど「苛立って」いるのでしょうか。

登場人物たちの会話はほとんど噛み合わず、罵声と冷笑、それに苦味ばしった無表情が積み重ねられていきます。

荒々しいドライバーたちによってけたたましく鳴らされるクラクションの不快な響き(「ウイークエンド」のクラクションとは鳴り方が全く違います)。

間断なく咳き込み続けるミシェル・ピコリ

イザベル・ユペールが苦しみながら吐き出していく吃音のセリフ。

映像のあちこちに「ささくれ」が仕込まれています。

ゴダールは自身の「苛立ち」を隠そうとしないばかりか、ときに、臆面もなくそれを観客にぶちまけてきます。

 

この映画の表層的なテーマは「対立」あるいは「分断」ということになるでしょうか。

経営者と労働者。

債権者と債務者。

夫と妻と愛人たち。

アーティストと製作者。

ハリウッドとポーランド

そして、光と闇。

さまざまな対立要素が、この監督にしてはかなり「説明的」に描かれています。

「パッション」は、エンタテインメント的な「見やすさ」はもちろんありませんけれど、構造的には、こともあろうに、かなりわかりやすいゴダール映画でもあります。

 

劇中、イエジー・ラジヴィオヴィッチ扮するポーランド人の監督が撮影している映画は、昔風にいうところの「活人画」(タブロー・ヴィヴァン)を映像として再現しようという試みとみえます。

この映画の時代設定は現代、つまり1980年代初頭当時そのものですから、活人画映画がそもそも商業的に成立するはずがありません。

設定自体が限りなくフィクションめいているわけです。

 

しかし、丁寧に作り込まれたセットや豪華な衣装、整えられた容貌と身体を兼備した役者たちによって構築されようとしている現代の「活人画」は、かなりの完成度をもった作品に仕上がりそうな質感を備えていることが確認できます。

ゴダールは、ひょっとすると、当初、実は、真面目に「現代の活人画映画」を制作してしまおうと考えていたのかもしれません。

 

でも、それがいかに不毛で、彼を苛立たせるものになっていったか。

のたうち回っていたのであろうゴダールの姿が「パッション=受難劇」そのものに反映されているように感じられてきます。

 


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監督ラジヴィオヴィッチは、撮影現場で「光」が違うとクレームを出し続けていて、映画は一向に完成する気配をみせません。

他方、プロデューサーやスポンサー側は、この活人画映画に「物語」がない、ということに気がつきはじめ、監督に詰め寄っていきます。

 

「光」と「物語」。

これが、ゴダールを苛立たせている最大のファクターなのでしょう。

「絵画」、特にここで取り上げられているレンブラントゴヤドラクロワなどの古典絵画には、「光」と「物語」が、全く余計な夾雑物を必要とすることなく、「自足」して出現してしまっています。

そのことがゴダールに痛烈に自覚されているからこそ、彼は苛つかざるを得ないのです。

 

ゴダールは、決して映画と絵画を比較してその優劣性を論じようという意図をもってはいません。

もともとその比較自体がナンセンスであることを十分承知しているでしょう。

 

しかし、彼は、「絵画」が、自ずから「光」と「物語」を、「時間」にも「音」にも頼ることなく、全く「一点」、それ自体のみで充足してしまっているその有り様に、とめどもない嫉妬をずっと感じ続けていたのではないか、と想像しています。

なぜなら、ゴダール映画作家として表現しようとしてきたのであろう世界そのものが、余計な「夾雑物」を一切必要としない、「それだけ」で成立する芸術だからです。

 

「夜警」にも「カルロス4世一家の肖像」にも、特段ストーリーとしての「物語」があるわけではないのに、なぜか観る者には、そこに「物語がある」かのようにみえてしまう。

絵画は、「光」を自在に操りつつ、画面を「ストーリー無し」の状態で「物語」にしてしまいます。

なぜ、「映画」にはそれができないのか。

ジャン=リュック・コダールが、究極的に苛立っている理由がこれ、だと思います。

 

一瞬だけ、ポーランド人監督が、息を呑むように、撮影現場で「自足した絵画的映画」に魅入られているような場面が確認できます。

ミリアム・ルーセル演じる聾唖の少女を撮影用のプール内に「星形になって」全裸で浮ばせるシーンです。

そこには、ひょっとしたら、「絵画並み」の「物語と光」が両立した情景が確認できていたのかもしれません。

しかし、それは監督の「眼」の中のみにとどまり、映像として「パッション」の中に現れることはありませんでした。

なまじ、「ひょっとしたら真の絵画映画が撮れるかもしれない」と監督に感じさせてしまう場面であり、余計、その残酷性が際立つ箇所でもあります。

 

ゴダールは「絵画映画」以外の部分を含めて、おそらく不毛な試みとは知りながら、多彩なクラシック音楽に映像へのサポートを要請しています。

確かに、ドヴォルザークのピアノ協奏曲が、この作曲家独特の人懐っこさを伴って、ささくれだった光景に中和の彩を添えようとはしています。

フォーレモーツァルトのレクイエムがエル・グレコに被せられる中、ラウル・クタールの天才的な撮影術の効果もあって、一瞬、絵画と映画との和解が達成されたかのような錯覚を観客に生じさせもします。

 

しかし、結局、「絵画映画」は「絵画」的自足性を持つことはできず、陳腐な「名画への旅」的な情景表現にとどまらざるを得ません。

そして、最後には、ヴァトーの「シテール島の巡礼」が、モーツァルトをBGMに、文字通り、映画の中で「解体」されてしまいます。

ゴダールの「敗北宣言」が、圧倒的虚無感で表現されるシーンです。

 

冒頭の青空シーンとともに、「パッション」における最も美しい場面は、ハンナ・シグラ演じるホテルの女主人が、ラジヴィオヴィッチにせがまれてモーツァルトのアリアを歌う撮影テストシーンでしょう。

ここでは、「映画の中のビデオ」が巧妙に美観の再現に貢献しています。

ゴダールは、「さらば、愛の言葉よ」や「イメージの本」といった最晩年の作品で、ヴィデオ映像にとことんこだわりをみせていたことで知られています。

「パッション」においては、絵画がもつ「物語」と「光」の自足性に敗北したゴダールですが、最後には、「映像」の自足性に気がついていたのかもしれません。