東博150年展に関する長い雑感(やや批判系かも)

 

絶賛開催中の特別展「国宝 東京国立博物館のすべて」(2022年10月18日〜12月11日)。

「凄い」とか「かつてない」、「奇跡的」という派手な形容詞がメディアを飛び交い、日時指定の予約チケットも早々に完売していくという大盛況です。

 

平日午後の遅い時間帯を選択して、なんとか鑑賞することができました。

入場前行列の苦行は回避できたものの、やはりここ数年で開催された企画展の類ではダントツの混雑ぶり。

「国宝すべて見せます」というメッセージの強烈な訴求力に驚きます。

混雑密集リスクを勘案し、平成館入口には「90分くらいで観終わってほしい」という趣旨のメッセージが掲示されていました。

この展示内容と混み具合からみて、それは無理だろうと思ったのですが、かなり邪道ともいえるショートカット鑑賞を敢行した結果、閉館時間前ギリギリのタイミングでクリアーできました。

 

以下、雑感です。

 

www.tnm.jp

 

ざっと会場の雰囲気を確認し、閉館までにじっくり満遍なく鑑賞することは不可能であろうと早々に見切りをつけました。

人垣の間隙を突きつつ、ねばって時間をかけたところで、混雑害に疲労困憊するだけ。

もうコロナどころではない雰囲気です。

等伯の松林図や刀剣類など、比較的、本館での常設展示で公開される機会に今後も恵まれそうな作品は、この際、全てカット。

ありがたい書跡類もどうせ何が書いてあるのか理解はできないので、さっと流し目で鑑賞し通り過ぎました。

法隆寺献納物の国宝群は、いつもはほとんど無人のような環境で寂しく宝物館に陳列されているのに、今回は大人気。
これもまた別の機会に見ればよかろうと、割愛することに。

こんな調子で無謀にメリハリをつけながら館内を回遊せざるを得ないことになりましたが、結果として予想よりもかなり早く鑑賞は完了。

しっかり東博の「90分以内」メッセージに応えることはできました。

 

長谷川等伯「松林図屏風」(部分・お正月に本館で撮影)

 

単一館のコレクションだけで60点あまりの国宝を一度に鑑賞できる機会は滅多にありません。

現実的に、もの「凄い」企画ではあり、東博生誕150周年のアニバーサリーを素直にお祝いしつつ、感謝もしています。

 

しかし、かなり性根が捻じ曲がっている私は、観終わったあと、充実感と共に、考え込んでもしまったのです。

 

この企画、騒がれているように、何が「凄い」のだろうか。

もっといっちゃうと、「本当にこれは凄いことなのだろうか」ということを、です。

 

東博保有する国宝は89件。

全国宝のおよそ1割程度に相当するのだそうです。

随分多い数のように思えますが、実際の展示に必要な面積を考えると、それほど巨大な空間を必要とはしていないことに、今回、気がつきました。

例えば、場所をとる大型の国宝仏像彫刻を東博は一切所有していません。

というか、よく知られているように、国立博物館全ての中で、「国宝の仏像」を「所有」しているのは、奈良国立博物館だけです。

しかもその奈良博ですら、所有はわずかに1件、慎ましい大きさの平安仏像「薬師如来坐像」のみです(これは余談でした)。

 

とにかく、展示スペース上の問題によって、今まで東博が館蔵国宝を一気に陳列することができなかった、という事情はあり得ないわけです。

今回、平成館のほぼ全域が使われていますが、本館も合わせれば、というより、本館だけでも、十分、東博国宝の全てを、余裕をもって、展示できるはずです。

 

物理的な場所の問題で言えば、何も「凄い」ことは起きていない、ということです。

 

太刀「三日月 宗近」(本館展示時の撮影)

次にその企画性について。

東京国立博物館は、1872(明治5)年、湯島で開かれた「博覧会」の開催をもって、「創立」の年としています。

「開館」ではなく「創立」としているところがミソで、本格的な博物館として上野に姿を現した年(1882年・ジョサイア・コンドル設計)を考慮すると、実は、今、堂々と「150周年」と謳って良いのか、という根本的な疑問も残ります。

ただこの件については、「創立100周年」を今から50年前に記念してしまっているので、現在の関係者たちにいまさらとやかくいってもはじまらないことではあります。

 

では、「150周年」は認めるとして、その大記念展において、「国宝全部見せ」が本当にふさわしい内容だったのか。

これが、本展の企画性の点で最も疑問を感じるところです。

「全部見せる」ということだけに価値がおかれた展覧会。

これほど「芸がない」テーマもないのではないか、と正直感じてしまいます。

もちろん、そこは東博側も十分意識していて、しっかり「第2部」を設定し、湯島以来のこの博物館がたどってきた歴史を展開。

他方、表慶館では「150年後の国宝展」として、現代日本に生まれたキャラクター、デザインの数々を公開する工夫も凝らされています。

しかし、展示配分、内容としてみると、いかにも「全国宝展」のオマケ的なレベルにとどまった印象があります。

 

本邦最高のミュージアム、その創立記念イヤーにふさわしい、「博物館とは何か」というテーマそのものを問うような、瞠目すべき企画力と構成力がある「凄い」展覧会であったと本展が言い切れるのか。

どうしても、疑問符がつきます。

 

 

最後に、変な言い方ですが、その「凄さ」そのものについての疑問です。

どうして、今まで、その「150年の歴史」の中で、ある意味誰でも思いつきそうな単純企画、「国宝一気全部見せ」が実現できなかったのでしょうか。

良識のある学芸員たちがその「芸のなさ」に抵抗を示してきた、あるいは思いもつかなかった、という事情があるかもしれません。

専門的な企画力を全く問われることがない、いわば単なる「お祭り行事」ですから。

 

しかし、その現実的な理由は別のところにあるとみています。

 

展示期間制約の問題です。

国宝を含む重要文化財、特に繊細な絵画作品などは年間で公開できる期間が、運用上、かなり制限されています。

加えて、東博の国宝となれば、館外レンタル出展のニーズも引くて数多。

他館に貸し出す期間との調整も考えると、かなり早い段階から準備を進めないと「一気公開」は実現できません(それでも本展期間中、実際観た範囲でも、京博や三井記念美術館と際どいスケジュールで国宝のやりとりをしています)。

くるくると目まぐるしく展示替えをすることで、公開制約と貸出調整をやりくりしているわけで、これはロジスティクス面を含め、気が遠くなるような作業ではなかったかと容易に想像できます。

確かに今までやったことがないレベルの業務だったのでしょう。

しかし、それをもって本展を「かつてない」やら、「奇跡的」と開催サイドがいってしまって良いのかどうか。

ありていに言えば、その「調整作業」は博物館運営者側の「実務」、つまり仕事そのものです。

「こんなに大変な仕事をしています」ということを鑑賞者に「凄いでしょ」と言われても、「ご苦労様です」としか言えないわけで、そういう「凄さ」なら、世界は違いますが、こちらもそれなりに経験済みですよ、と言い返したくもなります。

 

もっと意地悪く考えれば、ある意味、本展は業務上、「楽」だった面もあるはずです。

今回、平成館を埋め尽くした展示品のうち、借り物はお隣、国立科学博物館の「キリン」一体のみです(これはこれでとても珍しい事態ではあります)。

つまり、他館や個人などからのレンタル品はほぼ皆無だったわけですから、この方面のコスト、負荷はほとんどなかったといえます。

自前の展示品で「すべて」を揃えて、「奇跡」。

壮大な一人相撲的イメージをどうしても受けてしまいます。

 

と、批判めいたことを随分と書き連ねましたけれど、現実に本展を鑑賞し、確かに国宝オンバレードを「凄い」と感じ、東博による今回の英断に感謝してしまっている自分もいるわけです。

どうしてそうなってしまうのか。

それは、「常設展示」、近年の東博の言い方に従えば「総合文化展示」の運営と、鑑賞者としてのそれとの向き合い方に問題があるように思えてなりません。

上野にいつ行っても会える国宝が本館に常時多数展示されていれば、この「全部見せ」興行を、これほど「かつてない」だの「凄い」だのと自慢する必要がそもそもないわけです。

他方、特別展の機会くらいしか東博に足を運ばず、本館や法隆寺宝物館はその「ついで」的にサラッと鑑賞している私自身にも、本展を「凄い」と感じてしまう原因があります。

 

つまり、普段から、さすがに全部とは言わないまでも、多くの国宝が本館で常時陳列されていれば、これほどの大騒ぎにそもそもなっていないのではないか、ということだと思います。

 

作品単位でその展示損耗リスクは違いがあるはずなのに、運用上の慣例に寄りかかり、「国宝」というだけで一律的にしまい込んでいる博物館側の運営姿勢と、「いつでも観ることができる」ものにさしてありがたみを持たない鑑賞者としての身勝手な趣向性。

これらが相互に作用して、本来、実は何も「凄くない」はずの「東博の国宝全部見せます」展が「凄い」ということになった、こんなふうに考えてしまいました。

 

結局、今だに「博物館」を楽しんでいるのか、「博覧会」を楽しんでいるか、よくわからなくなることがあります。

150年前、湯島に飾られた「名古屋城の金の鯱鉾」の輝きを企画運営側も鑑賞者側もこの国の「ミュージアム」に、今も、求めてしまっているのではないか。

 

博物館との付き合い方、そのものを考えさせられたという意味でも、確かに「凄い」展覧会ではありました。