今年、2023年の夏、とても楽しみにしている展覧会があります。
奈良国立博物館の「聖地 南山城」展(7月8日〜9月3日)です。
東京国立博物館でも秋には「京都・南山城の仏像」展(9月16日〜11月12日)として巡回展示される予定。
ただ、奈良博展は東西の新館を使いきる、それなりの規模とみられる特別展なのに対し、東博展は、平成館ではなく、本館特別5室での企画展示となっています。
おそらく上野では奈良に比べ、かなり規模が小さくまとめられそうなので、たっぷり南山城各寺院のお宝を楽しむとすれば奈良博まで足をのばす必要がありそうです。
https://www.narahaku.go.jp/exhibition/special/202307_minamiyamashiro/
この展覧会は「浄瑠璃寺九体阿弥陀修理完成記念」とも銘打たれています。
2018年から進められてきた、浄瑠璃寺の国宝、九体阿弥陀如来坐像の修復作業が、5年の歳月を経て、今年の春に完了しています。
「聖地 南山城」展はこの機会をとらえ、最後に修理に出されていた2軀の阿弥陀仏(9軀のうち「その1」と「その8」)を、寺に戻す前に、奈良で披露し、あわせて木津川流域を中心とした南山城周辺の仏像を集合させるという企画です。
どのような仏像が展示されるのか、まだ出品リストが公開されていませんのでわかりませんが、非常に期待できる内容となることに間違いはなさそうです。
さて、東博での展示は11月中旬までかかる予定となっています。
ということは、移動と搬入作業のスケジュール等から推測すると、浄瑠璃寺に修理後の九体がはじめて揃って公開される時期は、おそらく来年、2024年に入ってからと思われます。
ほぼ6年ぶりに九体の阿弥陀様が揃うという大変おめでたいニュース。
それなりにメディアが取り上げることが予想されます。
来年初から当面の間、ひょっとすると、団体客を含む「浄瑠璃寺フィーバー」の大騒ぎになってしまうかもしれません。
この寺の魅力はなんといってもその隠れ里的な静寂さにあります。
騒々しいグループ客と一緒になっては魅力も半減してしまうのではないか。
こんな、かなり取り越し苦労的不安が、突然、湧き起こってきたのです。
コロナがおさまりつつあり、海外からの観光客もどっと戻ってきた奈良・京都ですから、余計心配になってきました。
とにかく「静かなうちに浄瑠璃寺」、ということで「聖地 南山城」展の予習を兼ね、足を運ぶこととなりました。
公共交通機関を使う場合、浄瑠璃寺へのアクセスはちょっと面倒です。
以前は近鉄奈良駅から奈良交通の路線バスがこの寺に向けて走行していたのですが、2020年に廃止されてしまいました。
現在は観光シーズン(4,5月と11月)の土日祝日のみ「古寺巡礼バス」として運行しています。
このバスは、なんとなくネーミングに恥ずかしいものを感じるのと、結局混雑しそうなので敬遠。
もう一つの手段、JR大和路線(関西本線)の加茂駅から出ている「木津コミュニティバス」を利用することにしました。
コミュニティバスはほぼ1時間に一本の運行と限られています。
ただJRの到着時間に合わせているのか、意外とスムーズに乗り継ぐことができました。
浄瑠璃寺まで20数分間、曲がりくねった山道をゆっくりアップダウンしながらのバス旅です(2023年4月現在 加茂駅東口-浄瑠璃寺間の料金は400円)。
浄瑠璃寺に着く少し手前に「東小」という珍しい名前のバス停があります。
「ひがししょう」ではなく、「ひがしお」と読みます。
これは「東小田原」が略された地名といわれています。
そして、浄瑠璃寺を越えた一つ目にあるバス停の名前は「西小」(にしお)。
こちらは「西小田原」の略なのでしょう。
昔、この付近一帯は「小田原」とよばれ、東小田原には随願寺という寺があり、浄瑠璃寺はそれに対して「西小田原寺」とよばれていたのだそうです。
やがて随願寺の方は消滅。
現在は、地名に「小田原」はなく「小」のみが残りますが、浄瑠璃寺の山号は「小田原山」。
かつての地名に因んでいます。
浄瑠璃寺は、南山城屈指の名刹なのですが、意外とその来歴には曖昧なところがあります。
天平時代、聖武天皇の勅願により行基を開基として創建された、あるいは源満仲が平安時代中期に造営したとする伝承は、いずれも信憑性が低いとされています。
ようやく史料的に寺の存在がはっきりしてくるのは、1047(永承2)年。
義明上人の本願、阿知山大夫重頼という人物の支援によって最初の本堂が建立されたという『浄瑠璃寺流記事』の記載によります。
現在、浄瑠璃寺はこの1047年を創建の年としていますが、義明という僧は「當麻の人」というくらいしか伝わっておらず、阿知山大夫重頼に至っては、いかなる世俗の権力をもっていた人なのか、ほとんどわかっていません。
位置的にみて奈良の大寺院との関わりは古くからあったと推測されるものの、創建時、南都六宗なのか、天台あるいは真言なのか、属した宗派がはっきりしていないようなのです。
さらにややこしいのが、「本尊」と「本堂」の関係です。
1047年に義明が建立した「最初の本堂」に安置された「本尊」は薬師如来像です。
その後、1107(嘉承2)年「最初の本堂」が破却され、「本尊」は「西堂」に一旦移されました。
「最初の本堂」跡には「第二の本堂」が建立されたのですが、1157(保元2)年、この「第二の本堂」が池の「西側」に移築されています(本尊が移された「西堂」はどこかにいってしまったようです)。
この移築された「第二の本堂」が、現在目にすることができる九体阿弥陀仏を安置する国宝「浄瑠璃寺本堂」ということになります。
注意が必要なのは、この「第二の本堂」が建てられた当初、この寺の「本尊」は、阿弥陀如来ではなく、当然に薬師如来だったのであろうという点です。
ところが、移築から10年も経っていない1166(永万2)年、「第二の本堂」はすでに「西小田原九体阿弥陀堂」と呼称されているのです。
この間、「本尊」である薬師如来像はどうなってしまっていたのか、よくわかりません。
結局、浄瑠璃寺の「本尊」は、いつの間にか9体の「阿弥陀如来像」ということになったようです。
でも、そもそも寺名にある「浄瑠璃」は、東方浄瑠璃世界の教主、「薬師如来」にちなんでつけられたものです。
いくつもの曖昧さを抱え込んだ上で平安仏教の世界を出現させている、不思議に美しいお寺です。
一方、浄瑠璃寺を代表するもう一つの国宝である「三重塔」は、1178(治承2)年、平安京の一条大宮にあったという塔を境内に移築したものです。
この塔に安置されているのが、1047年の「最初の本堂」にあった「本尊」薬師如来像ということになっています。
九体阿弥陀に圧倒されたかのように、一時はどこに安置されていたのかもよくわからない薬師如来像ですが、実は創建当初の「本尊」として現在も健在なのです。
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さて、1150(久安6)年、興福寺一条院の恵信(関白藤原忠通の子)がこの寺に一時住し、庭園を整備したこと等をきっかけに、この頃から法相宗の興福寺に属する寺院となっていたことがわかります。
「第二の本堂」つまり現在の本堂が池の西に移築されたのが1157年とされ、「西小田原九体阿弥陀堂」として有名になった記録がみられる年が1166年ですから、ここが阿弥陀仏中心の寺院となったのは、興福寺と縁ができたほぼ直後ということになります。
法相宗なのに、天台系浄土教に傾斜した阿弥陀如来がなぜ薬師如来に代わるように造立されたのか、現代の仏教教団理解で解釈しようとするとわけがわからなくなりますが、当時における阿弥陀仏信仰は宗派の垣根をやすやすと越える強烈なものだったのでしょう。
中世、近世初頭にかけ伽藍を発展させていったようです。
ところが、明治の廃仏毀釈により、興福寺同様、浄瑠璃寺も危機に瀕することになります。
結局、奈良で主流となっていた西大寺系の真言律宗寺院となることで命脈を保つことになりました。
ただ、結果的に、この寺には薬師如来、阿弥陀如来の他、大日如来や不動明王に四天王、地蔵菩薩、そして今や九体阿弥陀を上回るほど有名な吉祥天像など、顕密双方の仏像がコンフリクトを起こすことなく安置され、国宝と重要文化財だらけの贅沢な空間を形成し今に至っています。
桜が残る春の観光シーズンにも関わらず、九体阿弥陀仏が揃う前の浄瑠璃寺は、期待通り、ほとんど見学者はおらず、浄土庭園と本堂内をじっくり徘徊することができました。