曼殊院が新しい「宸殿」と前庭の完成を記念し、その宸殿の中で、国宝「黄不動明王像」を特別公開しています(2023年5月13日〜6月30日)。
お邪魔してみました。
宸殿は「大書院」の西側に接続して建造されています。
堂々とした復古スタイルの入母屋造。
廊下伝いに従来の拝観エリアからそのまま入室することができます。
以前あった梅林は無くなり、白砂を敷き詰めた庭園が宸殿の周りを囲んでいます。
2022年10月の完成。
真新しい白木がまだ香りを放っていました。
この新宸殿、曼殊院は「150年ぶり、悲願の再建」としています。
なぜ「悲願」という、お寺が使うにしては強いワードが用いられているのでしょうか。
この寺院の性質と経緯を確認するとその意味がわかります。
皇室と関係してきた寺院として高い格式を誇ります。
所縁のある天皇や歴代門跡の位牌などを安置する「宸殿」は、いわば門跡寺院としてのシンボル的建造物です。
ところが、曼殊院は1872(明治5)年、当時の宸殿を京都療病院(現在の府立医科大学付属病院の前身)建設のため、供出。
以来、この門跡寺院としての最重要施設を欠く状況が続いていたことになります。
他の四門跡寺院、すなわち妙法院、三千院(梶井門跡)、青蓮院、毘沙門堂は、いずれも現在、宸殿を持っています。
天台門跡寺院の中でただ一つ宸殿を欠いていた曼殊院にしてみれば、格式の面でかなり気になっていたであろうことが容易に想像できます。
余談ですが、実は、京都療病院の誕生には、他にも二つの天台門跡寺院が深く関わっていました。
まず最初に仮病院が設置されたのは、粟田口の青蓮院です。
その後、本格的な病院が、現在の府立医大病院がある広小路あたりに建設されました。
実はこの地は元来、廃仏毀釈によって大原への移転を余儀なくされた梶井門跡、つまり三千院が明け渡した寺域です。
公的な病院建設という名誉ある事績に関係するとはいえ、場所の提供に一役買った2寺院に課せられたコストは相当なものだったと思います。
他方、曼殊院も中心的建造物を政府に上納することになったわけですから、市内中心部の寺域を失った三千院ともども、大きな負担を強いられた門跡寺院といえそうです。
名刹曼殊院ですら、150年間も宸殿再建ができなかったという歴史自体が、その負荷の重さを自ずから物語っています。
供出された曼殊院の宸殿は解体されてしまい、療病院の建築材として用いられました。
田村宗立が描いた別の病院施設「京都駆黴院」のような当時の洋風絵画や、療病院の細部をとらえた写真も残っていないとみられ、宸殿再現のヒントとなる直接的な手掛かりは見つからなかったようです。
わずかに曼殊院の遠景が描かれた江戸時代の都名所図絵などをもとに、新しい建物のスタイルが決定されました。
屋根は本来、隣接する大小の書院などと同じ「こけら葺き」がふさわしいのでしょうけれど、メンテナンスにコストがかかるため、令和の新宸殿ではチタンが使われています(なお、今回の特別公開では内部からの見学だけですので屋根の様子は視認できません)。
内陣奥には、本尊阿弥陀如来像をはじめ、歴代門跡の位牌などが安置され、建物本来の機能が充足されていました。
なお、諸像はとても離れたところに置かれていますから、細部を確認したい場合はミニ双眼鏡などが必要と思われます。
また、室内の写真撮影は一切禁止となっています。
さて、今回の特別公開、最大の見どころは、新宸殿内部に展示されている国宝絵画「黄不動明王像」です。
普段は京都国立博物館に寄託されているのですが、展示の機会はほとんどないと思います。
2022年春に京博で開催された「最澄と天台宗のすべて」展では展示されるかも、とちょっと期待したものの、結局、公開はされませんでした。
曼殊院の黄不動明王像は、もともと三井寺(園城寺)に伝わる国宝「黄不動」を平安時代後期に写した、一種の「模写」です。
ほとんど一般公開されない三井寺原本ともども、非常に「秘仏」感が漂う絵画です。
今回は、愛知県立芸術大学がなんと4年もの時間をかけて制作したという曼殊院黄不動の「模写」も本物と並列して展示されています。
三井寺の原本からみると、「模写の模写」ということになるわけですが、かなりの力作で、おそらく今後はこの最新の模写が展示物として活躍することになるのでしょう。
今回の公開では、残念ながら、ガラス展示ケースに使われている木材のフレームが像の脚部にかかるので、画面全体を一気に満遍なく鑑賞することができません。
それでも、国宝黄不動の迫力は大変なものでした。
智証大師円珍(814-891)が幻視したという三井寺の黄不動がまるで空中に浮いているような神秘性を表しているのに対し、曼殊院の黄不動はがっちりとした体躯の表現が特徴とされています。
岩場に構える両足の、特に膝下あたりの筋骨表現は鋭く、まるで膝が飛び出してくるようにも見えます。
見開かれた両眼から放たれる強烈な意志の力にも圧倒されました。
ところで、この大傑作に、「図像学」の点で痛烈な批判を加えている人物がいます。
仏教学の泰斗、渡辺照宏(1907-1977)です。
彼は著書『不動明王』(1975)の中で、「黄不動」の矛盾点を舌鋒鋭く指摘しているのです(岩波現代文庫版 P.208-209)。
渡辺が問題にしているのは、不動明王に本来備わっているべき肩にかけられた「帯」の有無について、です。
不動明王は、いうまでもなくインドにその起源を持ちます。
古来インドでは、少年が修行のため師匠に入門する際、肩にウパヴィータ(もしくはヤジュニャ=ウパヴィータ)という細紐のような帯をかけてもらったのだそうです。
ウパヴィータは「身分」をも意味しているので、これをつけないと「身分を捨てた」ということになります。
明王は、「衆生のために活動」する存在ですから如来のように身分を捨てたわけではありません。
つまり渡辺によれば、不動明王は必ずこのウパヴィータを肩からかけていなければならない、ということになり、実際、今に伝わる不動明王像の大半にこれがみられます。
ところが、三井寺の原本黄不動とそれを写した曼殊院黄不動にはそのウパヴィータがありません。
このことについて渡辺は、「芸術作品としての価値はとにかくとして、およそ不動尊らしくない画像である。」とし、ウパヴィータがない黄不動像を「間抜けた尊像」とまで言い切りつつ、この像の有り様を以下のように天台密教自体への批判にもつなげています。
「日本中古の台密の弱点を露呈した一つのミスとして注意しておいてよかろう。」(P.209)
渡辺照宏のほとんど罵倒にも近い所見に驚きます。
ただ、これほど「黄不動」に容赦の無い渡辺も「芸術的価値はとにかくとして」と、予防線はしっかり張っているのです。
むしろ「図像学」的に貶す言葉が強烈なほど、それに反比例して、なぜ模写まで国宝になってしまうほどこの画像が尊崇を集めてきたのか、その「芸術性の高さ」を言外に顕彰してしまっているのではないか、とも読めそうです。
もともと、838(承和5)年、籠山中の円珍が感得したといわれる画像です。
図像的ルールが守られていないということは、逆に、過酷な修行に打ち込む若き円珍自身の脳内に現れたイメージそのものを反映しているとも解釈できます。
天台宗においてまだ不動明王の図像的ルールが完全に把握できていなかったという意味においては、確かに渡辺照宏が指摘する「台密の弱点」が表れてしまっているのかも知れません。
しかし、その三井寺原本を写した曼殊院黄不動は平安時代後期の作とされています。
すでに不動明王のイメージは確立していた頃です。
曼殊院黄不動を描いた絵師は、図像的ルールを知っていた可能性が高いとみられます。
それにも関わらず、ウパヴィータは描かれていないのです。
ルール違反と知りながら、あえて、絵師は原本像にウパヴィータを付け足すことをしなかったとも解釈できます。
それだけ、三井寺黄不動の像には、侵すことができない迫力があったということではないでしょうか。
その神秘的な迫真性は、写された曼殊院黄不動からも十分すぎるほど伝わってくると思います。
6月末までの展示を終えた後、曼殊院黄不動はふたたび京博に戻るわけですが、伝教大師最澄1200年遠忌展でも公開されなかった以上、何かよほど特別な企画でも無い限り、滅多に公開されることはなさそうです。
今回は貴重な鑑賞機会だと思います。