仁和寺境内の南西を占める御殿エリアの中心的建築物が「宸殿」です。
江戸時代初期、徳川幕府による仁和寺再興支援の際に造営されていた御殿エリアの近世建築群は、1887(明治20)年の火災によって残念ながら焼失してしまいました。
前仁和寺門跡でもあった皇族小松宮の意向を汲んで、その約20年後、1906(明治39)年に再建計画が始動しています。
1910(明治43)年、宸殿の設計は勅使門や霊明殿などと共に、仁和寺から京都府庁に依託されます。
この依託によって、当時京都府の技師を務めていた亀岡末吉(1865-1922)に設計が任されることになりました。
というより、既に実績をあげつつあった復古建築の天才、亀岡個人の力量に仁和寺側が期待した結果、府への発注に至ったということなのかもしれません。
なお「技手」として塩野庄四郎の名も見えます。
まず皇族門から着工がはじまり、霊明殿、宸殿、勅使門と再建が進み、1914(大正3)年、現在みられる明治再建の御殿エリアが完成しました。
(以上は京都府教育委員会『京都府近代和風建築総合調査報告書』を主に参考としました)
「京の冬の旅」などといった企画によって特別公開が実施される際は、御殿エリアをさまざまな角度から鑑賞できるように、臨時の足場や板敷が庭に設けられることがあります。
この板敷を歩くと、普段観ることができないこの建物の南側面をじっくり観察することができます。
すっきりとした舟肘木でまとめられ、蔀戸を開くその意匠は、平安時代の寝殿造を意識しているとされています。
ところが、宸殿の内部はがらりと印象が変わります。
24畳の「下段の間」と「中段の間」に、16畳の「上段の間」が真っ直ぐ連なっていますが、その仕様は桃山様式、特に上段の間は凝りに凝った書院造が採用されています。
外観の平安様式から一気に500年以上タイムスリップしたような室内仕様が組み合わされているのです。
欄間にみられる連続する繊細な花菱模様などにいわゆる「亀岡式」の典型が表されています。
しかし、この宸殿建築最大の特徴は、寝殿造と桃山風書院造の大胆な折衷仕様にあります。
さらに上段の間にみられる折上格天井は、格式の高さを表現しつつも、過剰な装飾性を排し、どこかモダンな曲線美すら感じさせる洗練された世界を現出させています。
さまざまな時代の和風建築様式を組み合わせながら、それらを違和感なく統合する設計技術。
これは亀岡末吉の処女作である旧忠魂堂(正法寺遍照塔)にすでにみられた手法です。
「亀岡式」の建築作法とは、絵画的な平面を意識させるスタイルや、アカンサスなど西洋デザインで用いられる図像をも組み込んだ繊細華麗な細部の装飾のことを主に指しています。
しかし、この建築家の本領は、「和様間折衷」スタイル、すなわち、奈良・平安から室町・桃山にかけて生み出されたこの国の最も美しい様式美のエキスを多彩に盛り込みつつ、全体としてはまるで一個の完成されたスタイルに統合されているかのように、なめらか、かつ、スマートに仕上げてしまう、その恐るべき設計センスにあるように思います。
素材面でも木曽産の最高級木材を贅沢に使った仁和寺宸殿の美しさは、国宝金堂や、五重塔といったこの寺が誇る重文江戸初期建築とは別の意味で特級の価値を持った明治近代建築の清華と感じます。
室内を雅やかに飾る原在泉の絵画も各間に素晴らしい景色を提供し、亀岡の優美な設計デザインと呼応しています。
平安、桃山の様式美に江戸近世風の宮廷絵画が見事に溶け込んでいるかのようです。
宸殿の奥、黒書院から接続する「霊明殿」もとても素敵な建築です。
宝形造で檜皮葺のゆったりとした角度を持った屋根が非常に優美な造形を現しています。
こちらにも蟇股に華麗な「亀岡式」の装飾がみられますが、全体の印象は境内の北西に位置する「御影堂」の雰囲気に似て、落ち着いた典雅さが支配しているような気がします。
霊明殿には仁和寺歴代門跡の位牌が安置されています。
設計者は、弘法大師空海を祀った御影堂の面影をこの霊明殿に写すことで、両堂の性質に共通性を持たせようとしているようにも感じます。
また、霊明殿屋根上の金属装飾には旧忠魂堂のそれと共通した、亀岡によるマニエリスム的といっても良いような工芸美が見られます。
それにしても仁和寺は傑作建築の宝庫です。
金堂、五重塔、仁王門、といった江戸時代初期の貴重な遺産に加え、近世後期に作られた二つの名茶室、明治末期から大正にかけての亀岡建築、それに片岡安による大正末期のコンクリート製霊宝館。
何度訪れても新たな発見がある名刹です。