泉涌寺 霊明殿

 

泉涌寺、その境内の一番東側奥に建つこの寺の最重要施設「霊明殿」(れいめいでん/りょうみょうでん)は、普段、非公開となっています。
2022年11月6日〜26日、京都古文化保存協会の主催により特別公開されました。

隣接する本坊や庭園は比較的よく公開されていますけれど、霊明殿まで含めての開放は限定的かと思います。
東山の紅葉混雑時期ではありましたが、平日の午後、時間がとれたので、この機会に初めて内部を見学してみました。

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泉涌寺は、応仁・文明の乱以降、度重なる火災で大きなダメージを受けてきた寺院です。
中でもこの霊明殿は幕末から明治にかけて、短い間に二度も焼け落ちるという不運に見舞われた建造物。
1858(安政5)年に焼失、1861(文久元)年に再建されたのですが、約20年後の1882(明治15)年、またも失火により炎上してしまいます。
現在みられる霊明殿はそのおよそ2年後、1884(明治17)年に建てられたもの。
時代的にみれば、近代建築の一種ともいえます。

なお、隣接する本坊御座所も同時に焼け落ちていますが、こちらは京都御所内にあった「皇后御里御殿」(1818・文化15年築造)をそのまま移築することで復活。
狩野永岳をはじめとする近世の京都絵師たちによる華麗な襖絵を保ちつつ、見事な庭園美をみせています。

 

泉涌寺 御座所庭園

 

明治維新の混乱がおさまった後にも関わらず、寺内の失火によって主要な建造物を失った例は泉涌寺に限りません。
京都の名だたる大寺院の多くが、維新後、著しく寺勢を傾けていたわけで、日々の防火メンテナンスにすら目配りができないほどの状況に追い込まれていたようです。
仁和寺東福寺南禅寺も同様に方丈や法堂などの重要な施設を明治に入ってから焼失しています。
しかし、それらの寺々が再建に10年以上かかっているのに対し、泉涌寺はわずか2,3年という短い期間で焼失堂宇を復活させています。

 

 

このスピーディーな再建の実現には、当然、「皇室の菩提寺」としての泉涌寺に対する天皇家宮内省の意向が強く働いていました。
神仏分離の建前はあったものの、明治天皇はこの寺に維新以降も度々行幸していて、その数は11回にのぼったのだそうです。
また現在も厚く尊崇を集めている真言宗泉涌寺派の宗祖、俊芿律師に「月輪大師」の諡号が贈られたのも明治以降のこと。
霊明殿の再建は明治天皇の勅許により宮内省が実施しています。
物心両面において、皇室による手厚いサポートが泉涌寺には継続してもたらされていました(宮内省からの寺内修繕費用の支援は戦後、新憲法発布まで続けられることになります)。

 

 

 

 

四条天皇の木造彫像をはじめ、歴代天皇の位牌を安置する霊明殿の建築様式は、ある意味、その機能に即した仕様をもっているといえるかもしれません。
入母屋造に檜皮葺が採用された外観は宮殿建築の系統である宸殿風に整えられています。
しかし、細部には寺院建築らしい装飾が施され、その内部は仏像こそないものの、内陣・中陣・外陣といった仏殿のスタイルがきっちり守られています。
照明などは一切なく、蝋燭も灯されていませんでしたから、内陣奥にあるという四条天皇像や位牌などはほとんど視認できませんでした。
荘厳や密教法具の金色以外、他の濃厚な色彩が使われていないせいか、奥に吸い込まれるような陰影深い静けさがあり、独特の雰囲気を漂わせています。
なお「霊明」と刻まれた扁額は後西天皇の宸筆を木彫で写し装飾が施されたもの。
これは火災を免れていて、江戸時代の制作当初から伝わるものだそうです。

 

泉涌寺 霊明殿

前述した仁和寺も皇室と結びつきが強い門跡寺院でしたが、泉涌寺ほど直接的な強い支援が得られなかったこともあって、炎上堂宇の再建には一定の期間を要しました。
しかし、むしろそのことによって、亀岡末吉という近代和様建築の名手に設計を委任する検討余地が生まれたともいえるわけで、仁和寺には、宸殿をはじめ、華麗な亀岡様式の傑作建築群が残されることになりました。
一方、泉涌寺の場合、皇室とのつながりが極めて深かったゆえに、その再建を急ぐ必要があり、宮内省直轄の事業として短期間のうちに霊明殿の再興が実現します。
結果として、この泉涌寺霊明殿は、近代の眼をある程度備えた建築思想の影響を受けることなく、「近世」の様式を受け継いだまま建て直されることになったわけです。

 

 

 

 

シャープな彫りの冴えを見せる菊の装飾など、独特のモチーフが見られます。
でも、ここには、例えば亀岡末吉が仁和寺東福寺恩賜門でみせた繊細かつ豊穣な装飾の美しさはほとんどみられません。
さらに、文久元年に建てられた前の霊明殿が焼け落ちて間もなかった頃ですから、前例踏襲のベクトルが色濃く働いた可能性もあります。
格別な「閃き」のような建築的凄みがあるとは感じられませんでした。

とはいえ、霊明殿の背後には多くの天皇陵が存する月輪陵があります。
建物自体が華麗に出しゃばってしまうと、陵墓に連なる境内全体の雰囲気に馴染まないといえるかもしれません。
シンプルな様式美を重んじた霊明殿は、この場にふさわしい格調高さを備えつつ、静かに鎮魂の世界を形作っています。