マスプロ美術館の青磁「鎹」と馬蝗絆伝説|織田有楽斎展



現在、京都文化博物館で開催されている「織田有楽斎」展。

(2023年4月22日~6月25日・ 来年初春にはサントリー美術館に巡回)。

 

正伝永源院所が所蔵する有楽斎関連の書状や文書などの比率が高く、総じて渋めの展示構成なのですが、さりげなくビジュアル系の貴重な名品が出展されてもいます。

 

 

www.bunpaku.or.jp

 

愛知県日進市にある企業系ミュージアム、マスプロ美術館が誇る逸品、「青磁花茶碗 銘 鎹(かすがい)」もその一つです。

 

安河内幸恵サントリー美術館主任学芸員の解説(図録P.161)によれば、織田有楽斎(織田長益 1547-1622)の茶会記録『有楽亭茶湯日記』の中に、「かすがい茶わん」が薄茶に使われたという記録があるのだそうです。

有楽斎の孫にあたる織田三五郎長好の代にこの茶碗は旗本、水野忠増(1625-1694)に譲渡されたとの記録も確認できます。

その後、角倉家、平瀬家などを経て、マスプロ電工の創業者である端山孝(1930-2007)が入手。

マスプロ美術館を代表する所蔵品として現在に至っています。

 

大井戸茶碗「有楽井戸」(東京国立博物館蔵)と並び、有楽斎所縁の名品として本展に出陳されたようです。

 

www.maspro.co.jp

 

とても繊細に美しい青磁

南宋時代、龍泉窯で焼かれたとされています。

 

何よりこの器が特徴的なのはその「薄さ」と、それによって現れているのであろう、驚異的な「透明感」です。

全体の形状から漂う気品の高さもあって、いつまでも見つめていたくなるような傑作。

文博では独立型展示ケースに収められていますから、360度、全景を楽しむことができました。

 

見た目にもそのデリケートな様子が伝わるのですが、実際、壊れやすい茶碗なのでしょう。

ひび割れてしまった部分に三本の鎹があてられています。

これが銘の由来になっています。

記録によれば、有楽斎はこのいかにも脆弱な修復茶碗を実際に茶会の席で使っていたことになりますから、鎹はしっかり水漏防止機能を果たしていたとみられます。

 

 

さて、このマスプロ青磁とよく似た器が知られています。

東京国立博物館が所蔵する重要文化財、「青磁茶碗 銘 馬蝗絆」です。

www.tnm.jp

 

「馬蝗絆(ばこうはん)」とは、鎹の形が、大きなイナゴ(蝗)に似ているという中国の喩えからつけられた銘とする趣旨の解説をよくみかけます。

しかし、岩田澄子の指摘によれば、これは漢字解釈の誤りであって、本来は、蝗ではなく、「蛭」のことを指しているということになります(「茶の湯文化学会会報」No.75)。

「蝗」という漢字は一文字ではイナゴを示しているのですが、「馬蝗」となると、それは全く別の生き物、ヒルを指す単語にあたるのだそうです。

 

確かに修繕に使用された細工の形状をみたままに喩えるのであれば、どうみても「イナゴ」というより、吸血生物「ヒル」の方がしっくりきます。

古来、中国ではヒルを「くっついて離れない」ものの喩えとする用例がみられ、その体液は薬効成分をももっていたことから、必ずしもネガティブなイメージだけでとらえられている生き物ではないのだそうです。

茶碗のひび割れをピッタリとくっつける、という意味では誠に理に適った銘でもあるのです。

 

岩田は、天下の名茶碗を「ヒル」と結びつけることが生理的に忌避されているため、あえて、いつまでもこの誤解が正されないのだろうと推論しています。

確かに、昨年開催された京都国立博物館茶の湯」展(2022年10月8日〜12月4日)で東博「馬蝗絆」が展示されたときの降矢哲男京博調査・国際連携室長による解説(同展図録P.329)でも、ヒルではなく相変わらずイナゴ説が踏襲されていました。

 

www.chanoyu-bunka-gakkai.jp

 

イナゴなのかヒルなのかという問題はともかくとして、東博「馬蝗絆」は実に豊かな由来伝説をもった器です。

 

この銘品には、伊藤仁斎の長男、江戸時代中期の儒学者伊藤東涯(1670-1736)が書いた由来書『馬蝗絆茶甌記(さおうき)』が付属していました。

そこには以下のエピソードが記されているそうです。

 

この青磁が室町将軍家に伝わった際、八代将軍足利義政は、底部に生じていた器のひび割れを厭い、大陸の明に送り、代わりの品を求めたのだそうです。

ところが、明では南宋青磁に関する技術がすでに失われていたため、代品を制作することを断念。

器は鎹によって修復された状態で義政のもとに戻されたそうです。

 

単に誠実だったのか、将軍様を馬鹿にしていたのか、内実は不明ですが、明のブローカーもなかなかに粋な対処をしたものです。

こんなプロセス自体が青磁椀に別種の彩を加えることになり、「馬蝗絆」の銘で知られることになりました。

三井家より1975年、東博に寄贈されています。

 

青磁茶碗 「馬蝗絆」(東京国立博物館蔵)



これだけでも貫禄十分すぎるほどの来歴なのに、「馬蝗絆」は由来をさらに平安末期まで遡っていきます。

平家物語』の巻三に「金渡(かねわたし)」という小段があります。

平重盛が、宗朝、育王山の仏照禅師徳光に黄金三千両の寄進を行い、後生善処を祈らせたというお話です(岩波文庫版では第一巻P.343〜344)。

「馬蝗絆」はこのとき、返礼品として宗国から重盛に贈られたものと『馬蝗絆茶甌記』には記されているそうです。

義政のエピソードはともかく、いくらなんでもこの故事には信憑性の点で疑問がつくようです。

「金渡」の段にも、重盛の寄進が記されているだけで、その返礼品については何もふれられてはいません。

室町将軍では物足りず、「平家物語」にかこつけられるほど、「馬蝗絆」が珍重されてきたということなのでしょう。

 

マスプロ美術館は、東博「馬蝗絆」と形状が似ている有楽斎所縁の「鎹」について、東涯が残した豊かな由来伝説を積極的に取り込み、活用する方針をとっているようです。

この青磁が、平重盛に贈られた2個セットの内の一つとHPで解説を加えていて、「鎹」の別名として「馬蝗絆」も併記しています。

つまり、東博とマスプロ美術館に分かれて所蔵されている二つの傑作青磁は、マスプロ側の説明によれば、もともと一揃いの器であったということになります。

 

しかし、東博側はこの「重盛への二個セット贈答」説を主張してはいないのです。

根津美術館が2010年に開催した「南宋青磁展」図録に掲載された「馬蝗絆」への解説をみると、三笠景子東京国立博物館学芸員(当時)は、マスプロ青磁「鎹」の存在について全く言及していません。

二つの茶碗にみられる類似性は、この分野では周知の事実ですから、「馬蝗絆」の解説において「鎹」の存在に触れないということは、いかにも不自然です。

 

他方、今回の「織田有楽斎展」の図録で安河内サントリー美術館主任学芸員がマスプロの「鎹」に加えた解説では東博「馬蝗絆」についてちゃんと言及されています。

しかし、その内容は、東博「馬蝗絆」が、「(マスプロの鎹と)姿形においてとてもよく似ているとの指摘がある」という表現に留められていて、これでは、むしろ「二個セット」説には与していないように読めます。

サントリー美術館側もマスプロ美術館の「二個セット」説を積極的に追認しているわけではないのです。

 

なんとなく、こうした茶道具につきものの、ややこしい来歴が見え隠れします。

図録情報のみではありますが、整理してみると、以下のような伝来を二個の器はたどってきたと思われます。

 

「馬蝗絆」(東博蔵): 足利義政→角倉家→室町三条三井家(三井高大)。

「鎹」(マスプロ美術館蔵): 織田有楽斎+三五郎→水野忠増→角倉家→平瀬家(平瀬露香)。

 

青磁の始原を「南宋平重盛」伝承とすれば、「二個セット」説もあり得ないことではないため、近代数寄者たちもそれを当然のように信じていたようです。

しかし、この故事の裏付けが取れない以上、学術的に評価するとマスプロ「鎹」と東博「馬蝗絆」の関係付けは、厳密には、困難なのかもしれません。

ただ、両者に共通する所蔵者として「角倉」の名がみえます。

ここに二つの茶碗を結びつける秘密がありそうではあります。

 

いずれにせよ、「鎹」も「馬蝗絆」も、そのミステリアスな由来ともども、この国に伝わる南宋青磁きっての名品であることに違いはありません。