「哀れなるものたち」の改変世界|ヨルゴス・ランティモス

 

ヨルゴス・ランティモス監督(Yorgos Lanthimos 1973-)の最新作「哀れなるものたち」(Poor Things 2023)が封切られたので早速鑑賞してみました。

ざっくりとした全体的な印象は人工美の限りが尽くされたネオ・バロック映画といったところでしょうか。

R18+指定で、それなりに露骨な性描写もみられますけれど、私の感覚ではさほど刺激的にヤバい作品とは思われませんでした。

ただ、買い物ついでにうっかり鑑賞してしまったらしいシニア女性が気まずそうにエンドロールの最中、足早にシアターから出ていく程度のグロさはありそうです。

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原作小説(未読)では19世紀、ビクトリア朝時代のロンドンを中心に物語が展開するという設定になっているようです。

映像もそれらしい雰囲気の景色からはじまりはします。

しかし次第にここに描かれている世界が我々が認識している歴史的過去における世界とは別物なのであろうことに気がつくことになります。

 

メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』を即座に連想させるウィレム・デフォー演じるマッド・サイエンティスト、彼個人がさまざまな得体の知れない技術を持っていることはストーリーの設定上、別に不思議なことではありません。

彼だけではなく、映画内の世界、そのものの様相が奇妙なのです。

一見、いかにも19世紀後半的な建築、装飾、衣装によって情景がデザインされているように感じるのですが、不思議な曲線をもった建築群はよくみるとビクトリア朝期でもアール・ヌーヴォー期でもない、独自の有機的な様式をもっているように見えてきます。

全く機能的裏付けを感じさせない蒸気自動車や、空中をケーブルで移動しているワゴンのような乗り物。

そしておよそ19世紀的ではない豪華客船に、過度に幻想的なアレクサンドリアの塔楼建築。

みようによっては、過去ではなく未来が描かれているようにも感じられてきます。

つまり、ランティモスが描いている「哀れなるものたち」の世界は、実は、現在とは直接つながっていない過去、すなわち「改変世界」なのです。

 

キース・ロバーツ(Keith Roberts 1935-2000)が著した『パヴァーヌ』(Pavane 1968)という有名な小説があります。

エリザベス1世が暗殺され、歴史上本来は負けたはずのスペイン無敵艦隊によってイギリスが征服されてしまった後の世界を描いて、カトリック勢力が全面的に支配し続けた結果生じた社会が描かれた作品です。
この「改変世界」では独特の「科学的」発展を遂げたテクノロジーが象徴的に描かれています。

「哀れなるものたち」にみる、「本来の過去」ではあり得ない様々な事物や現象は、キース・ロバーツが描いたような一種の「改変世界」に属しているのでしょう。

この設定によって、映画自体がその世界を含めて全て「別次元の過去」を描いていることが極めて強く印象づけられることになります。

歴史時代劇でも、単にフランケンシュタイン物をオマージュしたSFでも、おとぎ話的なメタバース・ファンタジーでもありません。

細部まで徹底した人工美で仕上げられているため、よくありがちなスチームパンクの域をもはるかに凌駕しています。

つまり、この映画は緻密に設計された「改変世界」そのものを描いた作品なのです。

そこにたまらない魅力をまず感じてしまいました。

 

 

多様多彩なイメージが詰め込まれている作品です。

エマ・ストーン演じる主人公ベラには、一見してフリーダ・カーロを想像させるようなメイクや衣装がみられます。

母親の肉体に自分の脳が移植された胎児という女性キャラクターを受け止める外見として、強烈な生涯をおくったフリーダのイメージは、ある意味、うってつけだったのかも知れません(あくまでも個人的解釈です)。

別次元の過去、すなわち改変世界を描くにあたって、ランティモスとスタッフたちは徹底的に「人工美」をとり入れています。

中途半端に現実的情景を組み込むと映画の世界観自体が崩壊してしまうことを察知していたのでしょう。

息苦しくなるくらいセットとCGによる人工的な背景が組み込まれています。

その最も象徴的なシーンは航海を描いた箇所でしょう。

いかにもわざとらしい、人工的海上の光景と、浮かんで動いていること自体が奇妙な豪華客船の造形は、直ちにフェリーニの「そして船は行く」を連想させます。

フェリーニはピラピラと舞う黒いビニールで夜の海を表現しましたが、ランティモスは一目でそれがCG合成であるとわかるようにあえて「美しすぎる海」を再現しています。

 

ケレン味たっぷりの映像演出が連続します。

映画は最初モノクロで始まります。

これはおそらくベラの脳発達のプロセスを表現するためのテクニックなのでしょう。

ベラがまさに「ベラ」として誕生した瞬間のイメージを導線としつつ、彼女に一定のパーソナリティらしいものが備わった途端、画面はカラーに移行します。

主人公は脅威的なスピードでその精神世界の成長を遂げていきますが、節目節目に重要なキーパーソンとの出会いが仕込まれていて、その都度「脳」が「人格」を持つようになっていきます。

船の上で出会う二人の人物、ハンナ・シグラ演じる老貴婦人とジェロッド・カーマイケルによる黒人青年は、それぞれベラに知恵や慈愛といった重要な人格上の要素を生じさせます。
二人はそれとは知らぬまま「哲学」や「宗教」をベラに直接投入しているようです。

パリの売春宿ではその女主人から「経済」を、同僚女性からは社会主義といった「政治思想」要素をベラは受け取ります。

ベラは彼女を「形成」する人格たちとヒリヒリするように直接的に出会うことによって一気に強烈な真の個性を獲得していくのです。

ここにビクトリア朝の社会がもっていたのであろう「教育」の要素が入りこむ余地は全くありません。

 

それに比してベラと相対する男たちは、ベラのパーソナリティとその魅力に翻弄され惨めな結末を迎えることになります。

しかしこのことをもって「哀れなるものたち」が単純なフェミニズム映画と解釈することもできないでしょう。

この作品は、主人公を男性に絶対置き換えることができない構造をもっているという意味において優れて「女性の映画」ではあると思いますが、といってフェミニズム楽天的に描いたコメディともいえないと思います。

 

ベラの脳あるいは人格は母親の肉体と同居しています。

愚かな男たち、あるいは男社会を粉砕し自由に生きる女性となる以前に、生涯、自分を殺そうとした「母」というフレームに囚われている存在でもあるわけです。

そのことに強く鋭く自覚的になった時、ベラはもはや「自由な人間」とはいえないかもしれません。

そしてもし、彼女自身が母親になるという事態を迎えたらその胎児の存在とどのように向き合うことになるのでしょうか。

むしろ、これほど恐ろしい地獄もないように思えます。

 

「哀れなるものたち」が描いたものは、例外なく哀れ、ということなのでしょう。