ダニエル・シュミット「天使の影」|ファスビンダー傑作選

 

マーメイドフィルムとコピアポア・フィルムの配給で、7月28日から「ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー傑作選」3本(「マリア・ブラウンの結婚」「不安は魂を食いつくす」「天使の影」)が各地のミニシアターで上映されています。

 

「天使の影」(Schatten der Engel 1976)は、ファスビンダー(Rainer Werner Fassbinder 1945-1982)ではなく、ダニエル・シュミット(Daniel Schmid 1941-2006)が監督した映画。

ただ、ファスビンダーは脚本を提供しつつ自らも出演し、本作に大きく関わっています。

版権はライナー・ヴェルナー・ファスビンダー財団が所有していて、今回は同財団によってデジタルリマスリングされたソースによる上映です。

 

「天使の影」。

名前だけはよく知られた映画かもしれません。

日本での劇場における公開は今回が初めてなのだそうです。

東京フィルメックスでの上映を見逃していました。

初見です。

fassbinder-film-2023.jp

 

全体としては名作、というよりも珍奇な傑作という印象でしょうか。

シュミットの映画語法とファスビンダーの脚本力が、相乗効果と減殺効果の両方を生み出していて、相応の手応えは感じたものの、ちょっと見終わった後、疲労感が残ってしまいました。

 

70年代のダニエル・シュミットがもっていた、極端にセリフを削ぎ落とし映像への没入感を優先するスタイルに対し、ファスビンダーの脚本は戯曲の趣を優先していて、かなり観念的に饒舌です。

結果として、シュミットらしさが出そうになると、ファスビンダーのセリフがそれを打ち消してしまい、没入する前に、こちらの頭の中が回転しはじめてしまうのです。

ときおり美しくスタイリッシュなシーンが登場する一方で、まるで画面よりもセリフに集中させようとするかのように脚本が仕掛けてきます。

 

ファスビンダー脚本&監督作品である「ペトラ・フォン・カントの苦い涙」のような、精緻に構築された室内心理劇として徹底されていれば、それはそれでセリフの力に酔うこともできるのですが、この映画では、困ったことに、シュミット特有の美意識が別の方向から作用してくるので、複雑な様相を呈してくることになります。

 

ただ、主演のイングリット・カーフェン(Ingrid Caven 1938-)だけは、ファスビンダーのセリフに振り回されることなく、「ラ・パロマ」でみせたような神話劇的表情を終始崩していません。

加えて、レナート・ベルタ(Renato Berta 1945-)による流麗なカメラワークと抑制された色調表現が映画全体をコーティングしていますから、これは紛れもなく、ダニエル・シュミット映画としての味わいを十分残している作品ともいえます。

 


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脚本のベースは、反ユダヤ思想があるとして問題視されたファスビンダーによる有名な戯曲「ゴミ、都市そして死」(Der Müll, die Stadt und der Tod 1975)です。

「天使の影」においても、土地転がしで富を築き、公権力とも結託しているとみられるユダヤ人の男が露悪的な存在として遠慮なく登場していますから、映像化に際し、ファスビンダーが題材自体に手心を加えたわけではないようです。

 

しかし、この映画全体のモチーフは、反ユダヤ思想といった一面的な内容を超越した、一種の「因果物語」のようなものではないかとも思えます。

 

登場するほぼ全ての人物が、なにがしかの「負」の要素をもっています。

主人公リリーとその同僚は、橋の下で男に身体を売るという、娼婦の中でも最底辺に位置する女性たちです。

ファスビンダー自身が演じるリリーのヒモ的パートナーであるラウルは、ギャンブルのみが生きがいという、絵に描いたようなDVクズ男。

リリーの父親は元ナチスの将校ですが、現在はグロテスクな女装歌手として醜い姿を場末の酒場のような場所で披露し生計をたてているようです。

その妻であり、かつては特権を思うがままにしていたと想像されるリリーの母親は、今や、車椅子がなければ移動できない身体。

ユダヤ人富豪につきしたがう男の一人は「こびと」(Zwerg)とあだ名されています(実際は主人よりも高身長ですが極端な醜男として表現されています)。

 

「過去」における罪の代償を背負わされている人物(リリーの父と母)と、これから罪を贖わなければならない人たち(リリーとラウル)。

ユダヤ人富豪は、映画の終盤においても、その財も権力も維持したままにみえますが、彼は両親をナチスによって殺された過去をもっていますから、「因果」のサイクルでみれば、すでに大きな「負」の要素を受けている存在ともいえます。

ただ、結局リリーに死を与えてしまったことで、おそらく彼もまた「因果」の輪の中に落ち込むことになるのでしょう。

 

リリーは、映画の冒頭、唐突に、ある小動物を殺してしまいます。

一見、無垢の存在であるかのようなリリーは、物語の最初にさっそく罪を犯しているわけですから、「因果」の円環に従えば、当然に、死をもって償わなければならない存在として未来を決定されています。

これはキリスト教的というよりも、東洋的な「業」すら感じさせるプロットといえなくもありません。

自己犠牲のようにもみえるリリーの死は、救いようなく回転する因果の輪の中に置いてみると、荒っぽくいえば、むしろ自然な成り行きなのです。

 

この映画が「業」といった宗教性、あるいは神話的要素を色濃く感じさせる要因の一つは、やはりダニエル・シュミットが監督している点にあるのでしょう。

ペーア・ラーベン(Peer Raben 1940-2007)による音楽は、意外にもやや控えめですが、黒人オペラ歌手によって突然歌われる「メリー・ウィドウ」の旋律など、ファスビンダーなら使わなそうな音楽がときどき挿入されるところもシュミットらしい、独特の効果をあげています。

 

仮にファスビンダーが自らが監督して「ゴミ、都市そして死」=「天使の影」を制作していたなら、もっとストレートな反ユダヤ思想を含む社会批判映画として出現したかもしれません。

ひょっとするとファスビンダーは、激しい批判を浴びた戯曲の映画化を、あえてシュミットに託すことによって、生々しくなりすぎることを回避したと推測することもできそうです。

 

また、この映画は、戯曲の舞台となっているフランクフルトではなく、ウィーンで撮影されています。

わざとらしくオーストリアの地図まで映像の中で掲載し「ドイツではない」ことを強調しているのは、消極的な理由からなのか積極的な理由からなのか、よくわかりません。

しかし、逆に、ウィーンだからといってシュテフアン大聖堂やシュターツオパーなど、この街を代表する旧市街の風景はほとんど確認できません。

代わりにおそらくナチスが築いた元要塞施設や、撮影当時、建設途中だったとみられる国連事務局ビルなど、無機的な建築物が背景に登場しています。

結果として、このウィーンという舞台設定も、生々しすぎる原作の雰囲気をほどよく減退させ、「天使の影」に一種の神話的あるいは寓話的な空気をまとわせているように感じられました。

 

シュミット要素とファスビンダー要素。

これが6 : 4になったり4 : 6になったり、くるくると入れ替わるところを面白いとみるか、疲れると感じるかで「天使の影」は評価が分かれそうですが、私はとても面白く疲れました。