「CLOSE / クロース」の時間表現|ルーカス・ドン

 

各地のミニシアターで評判になっている、ルーカス・ドン(Lukas Dhont 1991-)監督作品、「CLOSE / クロース」(Close 2022)を観てみました(配給はクロックワークス)。

 

 予告編をみた段階では、「ありがち」な映画かもと、さほど期待していなかったのですが、意外にも、「時間」の扱いにとてもこだわった内容になっていて、驚いています。

 

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おおよその内容は、実は、ほとんど予告編で語られてしまっていたともいえます。

純粋に親密な関係をもっていたローティーンの男子二人が、新たに踏み入れた学校社会の中で、他者の容赦ない視線によって窯変し、悲劇的な結末を迎えてしまうプロセス。

何か特別な「秘密」とか「オチ」が仕込まれている作品ではありません。

大多数の観客が予告編をみて想像するであろう、プロット通りのことが起きていきます。

 

特に物語の序盤は、レオ(エデン・ダンブリン)とレミ(グスタフ・ドゥ・ワエル)の、あまりにも繊細に近しい関係性が、とてもわかりやすく壊れていくので、映像の美しさと洗練された語法処理がなければ、思春期系「教育映画」にすら感じられるかもしれません。

 

しかし、レミがいなくなってから、この映画の恐るべき手法がジワジワと効果を発揮してきます。

 

レミの不幸な最期は全く映し出されません。

自死という言葉すら登場人物から発せられることもなかったと思います。

彼が最期を迎えたとみられる自宅シャワールームの壊されたドアの映像だけで、その死を描いています。

ただ、ここまでは、直接的な映像を回避して、表現に奥行きをもたせる一般的な手法といえなくもありません。

 

ところが、映画の後半になっても、「レミ」は、一度も、まったく、登場しないのです。

客観的な回想シーンはおろか、レオや両親の主観的心象風景の中にも、一切、レミは出現しません。

本当に、突然、いなくなってしまいます。

 

ここで、「クロース」がもっている、極めて近年の映画にしては稀なスタイルに気がつくことになりました。

 


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この映画の描く「時間」は、常に、「現在」だけ、なのです。

 

記憶が間違っていなければ、「クロース」において、「過去」が映像となって表現されるシーンは一箇所もなかったと思います。

レミに関する記憶を含め、この映画では見事に「回想」シーンがありません。

過去の出来事や心象説明めいたナレーションすら完全に排除されています。

編集によって過去と現在が入れ替わるような処理もないため、観客は常に、「レオの現在」という場に同居することになります。

 

この映画の「時間」軸は常に一本。

レオの周囲に流れる現在の帯だけが存在しているのです。

予告編では伺いしれない、この映画の驚異的に素晴らしい点は、ここです。

 

映画は、言うまでもなく、「時間」を自由に操作できる芸術です。

これは映像芸術の特権的機能ともいえますけれど、このところ、それを弄び過ぎている映画が多いようにも感じます。

 

同じ時間を繰り返す、いわゆる「タイムループもの」は続々と話題作が提供されています。

時間に加えて「次元」までも多層化させる「マルチバースもの」にいたっては、今や米国メジャー映画のお家芸です。

随分と評判になった「怪物」(是枝裕和)でも、「時間の反復」による世界の多層化表現が周到に用いられ、効果を発揮していました。

 

ただ、私だけかもしれませんが、正直、もうこうした「時間の翻弄」系映画はウンザリという気分でもあります。

過剰に設定される伏線回収の術やら、心理的快感を狙った決着のつけ方など、その手法が劇的であったり、スマートであればあるほど、「それだけ」の映画にみえてきてしまうのです。

 

まだ30歳代になったばかりのルーカス・ドンも、ひょっとすると、そろそろこうした「時間の翻弄」スタイルの陳腐さに気がついていたのかもしれません。

「クロース」では、ほとんど意図的といっても良いほど、「時間の流れ」がシンプルに単一化されています。

 

この映画の中の時間は正方向に流れていくだけです。

過去に戻ったり、他次元からメタ的に時間を観照することも一切ありません。

 

それどころか、登場人物たちはほとんど「過去」を語っていないのです。

レオやレミの家族たちがどんな人生を歩んできたのか、説明めいた描写はありません。

提示されているのは、あくまでも「現在」の彼ら彼女らの姿のみです。

しかし、その「現在」の姿だけで、ここに生きている人たちの存在感が、説明されていない過去をも含めて、見事に説得力をもって表現されています。

 

回想も、昔語りも、時間の反復も、実は、「現在のリアル」を描く上で、必須ではないことを証明した上で、むしろ、そうした夾雑物を排除することで、シナリオや映像の美しさをシンプルに提示していく映画術。

ルーカス・ドンの実に巧妙かつ丁寧な仕事が確認できる作品だと思います。

 

思春期物にありがちな、「未来に希望を」といったクリシェ的教訓表現もしっかり回避されています。

劇中、唯一、「未来」について語られるシーンがあります。

レオの兄が、学業試験が終わった後の「予定」を、食事に招いてくれたレミの両親に話す場面。

ここで彼から邪気なく語られる「未来」は、息子を失ったレミの父にとってみれば、「失われた未来」ということになります。

この映画では、「未来」は、むしろ「過去」以上に残酷なものとして提示されています。

 

最後の場面、夕暮れの花畑でこちらを向いて振り返るレオの表情には「暗い過去」も「明るい未来」もありません。

ただ、「現在」の眼差しが美しくあるだけです。

 


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