超絶技巧、未来へ! 明治工芸とそのDNA
■2023年7月1日~9月3日
■あべのハルカス美術館
今年の2月から岐阜県現代陶芸美術館を皮切りに各地を巡回しはじめた「超絶技巧、未来へ!」展。
長野(長野県立美術館)での展示を終え、現在、天王寺で大阪展が開催されています。
あべのハルカス美術館は駅直結なので、このところの酷暑害を回避しやすいことに加え、近鉄が列車内や駅で喧伝している前原冬樹の「スルメイカ」ポスターが相応の訴求力を発揮しているようです。
混雑というほどのレベルではありませんが、間断なくお客さんが訪れていました。
仕掛け人ともいえる監修者の山下裕二と清水三年坂美術館(村田理如館長)のコラボレーションによる「超絶技巧」美術シリーズ。
本展は、「超絶技巧! 明治工芸の粋」展(2014〜15)、「驚異の超絶技巧! 明治工芸から現代アートへ」展(2017〜19)に続く、第三弾となるそうです。
幕末明治期における「超絶技巧」系美術の価値を一般に再認識させたといっても過言ではない、山下裕二と村田理如。
この二人はかなり長い付き合いなのかと思っていたら、その出会いは、実は、それほど昔ではないのだそうです。
2006年、村田が上梓した『幕末・明治の工芸』(淡交社)の書評を山下が書いたことがきっかけで両者の関係が生じています。
そして山下が「超絶技巧」のキーワードを用いて三年坂美術館のコレクションを初めて本格的に紹介したのは、2010年。
泉屋博古館分館(現・泉屋博古館東京)他で開催された「幕末・明治の超絶技巧」展が初めてでした。
六本木一丁目で開催されたその展覧会を、たまたま私は観ていたのですが、いかにも地味だったこの企画が、その後、「超絶技巧」系美術ブームをこれだけ引っ張るきっかけになるとは予想もしていませんでした。
それから10数年、「超絶技巧」は、幕末明治から一気に平成令和まで時代を跳躍し、このところ、現代の超絶技巧系アーティストも数多く認知されるようになったと感じています。
本展では、そうした「現代」の作家たちによる作品の比率が高く設定されています。
点数だけ見ると、現代作家 : 明治作家の作品数は64 : 60なので、ほぼ拮抗していますけれど、小型作品が大半を占める明治作家に対し、現代アーティストのそれは、例えば、本郷真也の巨大な龍の金工自在作品に代表されるように、ボリューム面で明治の先達たちを圧倒しています。
かなり「未来へ!」が重視されている超絶技巧展です。
過去においても現在においても、ここに紹介されている作家たちの技術力は驚異的です。
ただ、明治と令和で、決定的に前者にあって後者にない要素があります。
「古典」の存在です。
明治大家たちの作品には、必ずといって良いほど、故事や物語、吉祥の印など、何らかの「古典」要素が題材として組み込まれています。
技巧は、もちろん明治作家にとって誇るべき手段ではあるものの、創出される作品は、花鳥風月、仏教や物語文学、古事談といった「古典」に依拠することが大前提なのです。
これは、注文主あるいは購買者がそれを要求していたということも大きいわけですけれど、明治の大家たち自身にとってみてもそれが当たり前のことでした。
つまり、明治の「超絶技巧」は、「何を表現するのか」という根本において、ほとんど迷う必要がなかったともいえます。
このことが、逆に、しばらくの間、「超絶技巧芸術」が旧弊な応用美術の一種として、美術工芸史の表舞台から消えてしまう理由にもなったわけですが、当の作者たちにとってみれば、むしろ何ら迷うことなく、自らの技巧を手段として駆使することができたということもできます。
そういう意味では、幕末明治は、社会生活面ではともかく、彼らにとって「幸福な時代」だったと言えるかもしれません。
他方、令和の作家たちには、もはや拠って立つべき、かつてこの国がもっていた「古典」がありません。
様式化された花鳥風月や吉祥モチーフ、伊勢や源氏物語をテーマに「超絶技巧」を注ぎ込んでも、それは「伝統工芸」の一つとしては成立するかもしれませんが、素材と「技」自体にとことんこだわらざるを得ない作家性を持った現代アーティストが志向する作品とは別のものになってしまうでしょう。
令和の超絶技巧作家たちは、おのおのに、その芸術性を表現するための新しい、違った価値観での「古典」をもたなければならないわけです。
あらゆる価値観が等価にばら撒かれている現在、「技巧」をレゾンデートルとする作家にとって、「何を創るか」は、その基盤となる「新たな古典」探しから始める必要があるのです。
その意味で、ここに紹介されている17人の作家たちは、それぞれに彼ら彼女ら独自の「古典」を新たにしっかり見出し、形にしているといえそうです。
松本涼(1969-)は、おそらく早くから、「古典喪失」の時代を意識しながら、技を磨いてきたアーティストの一人ではないでしょうか。
極端に薄く彫り込まれた彼の木彫作品には、やや時代錯誤といっても良いくらい、ある種の宗教性のような要素が感じられます。
葡萄や菊をモチーフとした作品(「黄昏」「涅槃」)には、強く「死」や「仏教」的な思想が感得されるように思えます。
薄く薄く、軽く軽く成形される木材が帯びる、儚さと深さが、それに直接触れなくても、視覚を通して、触覚的に伝わってきます。
「髑髏柳」は、落語に題材をとっている点で、さらに「古典」の要素を直接的に強く意識している作品です。
しかし、この髑髏には、例えば今回、明治作品の中で紹介されている泉亮之(1838-1918あるいは1920)の「蛇纏髑髏」のもつ古典的様式性とは真逆の、軽やかにモダンな諧謔の苦味、面白さがあります。
極薄の木だからこそ表現できる「笑う髑髏」の奇妙な美しさに魅入られてしまいました。
他方、青木美歌(1981-2022)のガラス作品「あなたと私の間に」では、どうやら「粘菌」のもつ不可思議な形態が彼女にとっての「古典」として表されているようです。
ステンレス板で区切られた二層の空間。
上層には重力に逆らいつつも脆弱にデリケートな生命力を主張するような菌的な造形があり、下層にはそれを、これまた脆弱に支える根のような物体が確認できます。
いずれもガラスであることに何の必然性もない形態をもっているのですが、それが極度に洗練された青木の技巧によって、むしろ、必然の形態に変化しています。
バーナーワークと吹きガラスの技法で生成されたという作品。
と言われても、これは気の遠くなるように繊細なテクニックであって、まさに「令和の超絶技巧」を代表するような美観を持っていると感じました。
なお、青木美歌は昨年、41歳の若さで病没してしまったそうです。
とても残念です。
現代作家たちの作品の中には、2020年から2023年かけて制作されたものが多くみられます。
コロナ禍の真っ最中に制作されたということになるわけですが、この環境がどういう影響を彼ら彼女らに与えたのかは、当然にわかりません。
しかし、どこか異様なまでに静かな集中力を感じさせる作品たちからは、どのように「古典」性と向き合っていたのか、作家たちの深い呼吸が聞こえてきそうでもありました。
素晴らしい展覧会です。
写真撮影は、一部の作品に限って可能となっています。
何を基準として撮影可否を決定しているのかが全く不明なのですが、下記に少し添付しておきます。
9月12日から11月26日まで開催されます。
秋風が吹いたら、もう一度、三越前で鑑賞してしまう、かもしれません。