ハピネットファントム・スタジオの配給で2月16日からアリ・アスター(Ari Aster 1986-)監督による「ボーはおそれている」(Beau Is Afraid 2023)が各地のシネコン等で公開されています。
R15+指定です。
ちょっとした性描写はありますが丁寧にボカシを入ることでR18+は回避したというところでしょうか。
この監督らしく生理に直接訴えるバイオレンスシーンが数多く散りばめられているものの、映像自体が独特のスタイリッシュさをもっているので目を閉じたくなるほどの過激さは感じられませんでした。
「ヘレディタリー/継承」にみられたオカルティックな力、あるいは「ミッドサマー」におけるローカル・カルト集団といったある意味わかりやすい設定と比べると、「ボーはおそれている」の描く世界はやや複雑です。
物語は大きく分けて4つのパートから成立しているのですが、それぞれの環境設定が極めて独特であることに加えて、主人公の中年男性ボー(ホアキン・フェニックス)の回想、夢想、幻視体験が縦横無尽に絡みついてくるため、ちょっと油断するとこちらの脳内が混乱してくることになります。
ただ約3時間にも及ぶ物語の終盤にたどりつくと、それまでのプロセスにみられた不可思議な出来事についてアリ・アスター流の「答え合わせ」が用意されてはいますから、難解なまま観客を放り出すアート系映画というわけでもありません。
まずボーが暮らしている場所が奇怪です。
彼はまともな人間はどうやら一人もいない無法地帯的ダウンタウンの一角に建つアパートに住んでいます。
いくら荒くれ者が多いアメリカのスラム街といっても、アパートを出入りするだけでも命がけという、明らかに異常な空間になぜこの男は住み続けているのか、この初期設定にまず当惑させられます。
しかしスピーディーかつお笑い要素満点のシーン展開によって舞台設定に関する疑問はいつの間にかどうでも良くなり、結局作品内世界に一気に引き込まれてしまうことになります。
このアリ・アスター映画は、こともあろうに、紛れもなくまずコメディーなのです。
第1パートであるスラム街の場面以降、母親の怪死を知り、とにかく実家に一刻も早く戻りたいボーに次々と降りかかる災難が執拗に描かれていきます。
ボーを車で轢いてしまった外科医一家との珍妙なやりとりが描かれる第2パート、外科医の家から脱出して迷い込んだ森で出会う移動劇団とそこでボーが体験する劇中幻想劇が中心の第3パート、そしてなんとか実家に戻ったボーを待ち受けるさらなる悲喜劇である第4パート。
前段の3パートは一見何も関係がない、偶然が引き寄せたシーンと感じられます。
ところが最後のパートに至ると錯綜していた三つのシーンが複雑な糸で結ばれていたことがわかります。
全てを支配していたのはボーの母親、モナ・ワッサーマン(パティ・ルポーン/ゾーイ・リスター=ジョーンズ)だったことが明らかにされます。
モナは一代で事業を成功させた富豪です。
おそらくそのビジネスとは息子のボーを愛する中で考案された健康食品や教育、医療関連事業等だったのでしょう。
ボーが住んでいたスラム街もモナが開発した発達障害等を抱えた人たち専用の居住区とみられます。
第2パートで登場する外科医と妻は、これも想像ですが、交通事故によって負傷させてしまったボーがどういう出自の人物なのか、そしてあのスラム街の機能を承知していたのでしょう。
第3パートの移動劇団まで母親が仕組んだとは考えにくいのですが、これはボーにとってもう一つの大切な要素である「父親の機能」を認識させる意味でストーリーの進行上、不可欠な場面として組み込まれたといえそうです。
映画の冒頭でボーを診察する黒人の老セラピスト(スティーヴン・マッキンリー・ヘンダーソン)が登場します。
この人物は母親と結託しボーを監視していたわけですが、母親以上にボーを周到に追い詰める役割を果たしているようにも思えます。
セラピストはボーに「母親の死を望んでいないか」と尋ねます。
言下にそれを否定するボーに対し、彼は続けて「母親を愛することとその死を願うことは同時に持ちうる感情だ」と諭しています。
映画が伝えようとしている重要なテーマがこのセラピストの発言に込められています。
ある意味、「ボーはおそれている」という映画はこの二律背反的な感情の存在について、セラピストがその姿を隠したまま証明していくプロセスを描いているといっても良いかもしれません。
セラピストはボーにあるドラッグを処方し「必ず水と一緒に飲むように」と強く念を押しつつ手渡します。
それからボーが巻き込まれていく事件をトレースしていくと全てこのドラッグが引き金になってドミノ倒しのように発生したことがわかります。
帰省の約束をした日の前夜、ボーの居宅に身に覚えのない騒音クレームを訴える紙片が次々と投げ込まれます。
当然に眠ることができず予約していた飛行機の時間ギリギリに起床することになってしまったボーは慌てるうちに部屋の鍵と荷物を何者かに一瞬で奪われてしまいます。
精神を安定させるため例のドラッグを服用しますが、アパートの水道が断水していて水を飲むことができません。
やむなく向かいのコンビニに駆け込んでいる間に無法者たちによって部屋は占拠されてしまうのです。
クレジットカードもなぜか無効になっています。
全てドラッグを飲ませるために仕組まれたトラップであり、その目的はボーの帰省を妨害し母親との軋轢を生むことにあったと言えそうです。
ドラッグ自体はおそらく水など飲まなくても問題はない悪意に満ちた偽薬だったのでしょう。
こうしたボーに起こる一連の災難を全て緻密にコントロールできたのは母親というよりも、あのセラピストの方なのです。
母親のモナは、鍵を奪われてしまい帰省が難しくなったことを電話でつげるボーの言葉を信用していませんでした。
帰省したくない言い訳としてついた嘘であろうと誤解しています。
虚言を弄して母の存在を軽視したボーを懲らしめるために自分が怪死したという手の込んだ狂言を仕組んだわけです。
とすると、ボーの鍵を奪った犯人は母親ではない何者かからの指示を受けてアパートに潜んでいたことになります。
その指図ができた人物は「水が絶対必要なドラッグ」を渡したあのセラピスト以外、ありえないと考えられます。
セラピストは「母を愛しながらその死を願う」という子供の感情が存在することを証明するため、一連のトラブルを緻密に計算し設定していたのではないでしょうか。
そしてこの命題を証明するためのおぞましい心理実験は、ボーが全てを悟った後、母モナに対して起こした行動によって見事に成功してしまうのです。
母親の絶対的支配欲とセラピストのマッドサイエンティスト的研究欲によって構築された舞台の上で主人公が踊らされていくというこの映画は、その枠組みが前2作と共通するという意味でまさにアリ・アスターならでは世界が描かれています。
とはいっても、どうにも説明がつかない奇妙奇天烈な場面もあります。
ボーが実家の屋根裏で目撃した「父親」の姿は一体何なのか。
第2パートで外科医がボーの下半身のある部位に関する異常を指摘する場面があります。
とすると、ボーもいずれは屋根裏の「父」と同じモンスター的な存在になってしまうということなのかもしれませんが、その「父」と対決するとんでもないクレイジー・ソルジャー役を担ったドゥニ・メノーシェによる渾身の演技に、もうそんなことはどうでもよく爆笑するしかないシーンではあります。
さて、ボーの綴りは"Beau"です。
一字変えるとフランス語の"l'eau"、つまり「水」になります。
偶然の相似なのかもしれませんが、この"Beau Is Afraid"は「水」が実に象徴的な機能を果たしている映画です。
最後の場面、ボーに審判が降る幻視シーンの前、彼を乗せたモーターボートは暗い洞窟のような「穴」の中に入っていきます。
水は真っ黒です。
この映画の最初のシーンも水が支配する暗黒の「穴」の中から始まっていました。
つまり「ボーはおそれている」は、「子宮」に始まり「子宮」に帰るという、奇怪に冗長なオデッセイなのでした。