根津美術館の北宋書画展と「五馬図巻ミステリー」

 

特別展  北宋書画精華

■2023年11月3日~12月3日
根津美術館

 

展覧会のタイトルまで漢文調を採用した根津美術館渾身の企画展です。

本展のために各地から集められた作品数自体は40点程度とそれほど多くはありません。

しかし、それぞれの書画が恐ろしく濃密なものばかりであり、むしろ、一度の鑑賞では消化しきれないほどのラインナップで構成されています。

じっくり鑑賞すると2時間以上かかるかもしれません。

www.nezu-muse.or.jp

 

会期は実質1ヶ月未満と短いのですが、国宝を含む重要文化財の比率がとても高いので、展示期間制約を考えると、やむを得ないと思います。

一部、入れ替え等があるものの大半の作品が会期中を通して展示されています。

 

ただ、特別ゲストも招かれていて、仁和寺の名宝「孔雀明王像」は11月21日から会期末までの限定展示。

加えて、超の付く公開レア国宝、徽宗の「桃鳩図」は12月1日から3日とわずか3日間の展示です。

「桃鳩図」は昨年、京都国立博物館で開催された「茶の湯」展で久々に出現し話題になりましたが、このときは4日間でしたからそれより1日短いことになります。

この絵画のファンにはかなり熱心すぎる人がいて、昨年の京博では、30分以上、単眼鏡を覗きながら展示ケース前に貼り付き動かない鑑賞者にでくわしてしまい閉口した記憶があります。

徽宗の鳩」がいる日はこうした私が苦手とするお客さんが大挙押しかけそうなので避けることにしました。

 

さて、この「北宋書画清華」展で、仁和寺の孔雀や徽宗の鳩よりも目玉として扱われている作品が、李公麟(1049?~1106)による「五馬図巻」(東京国立博物館蔵)と「孝経図巻」(メトロポリタン美術館蔵)です。

特に「五馬図巻」はその謎めいた来歴も含め、本展の主役として強烈な存在感を放っていました。

 

来歴についてとてもわかりにくい説明がなされています。

わかりにくい、というか、何か「伝えたくない」ことでもあるのではないかと思えるくらい情報に欠落があるのです(関係する全ての文献を見たわけではありませんけれども)。

まるで「五馬図巻ミステリー」です。

 

根津美術館の宣伝コメントによるとこの絵図は「2018年、約80年ぶりに姿を現しました」とされています。

しかし、なぜ「80年ぶりなのか」、その理由については語られていません。

 

単純に個人秘蔵の作品がオークションに登場した、あるいは市中の画商から売りに出されたということであればミステリーでも何でもありません。

さすがにこれほどの名宝となると例は限られてくると思いますが、好事家たちの間を転々とした後、ひょっこり美術マーケットに現れてくるケースは珍しいことではないでしょう。

ところが「五馬図巻」は、いきなり「東京国立博物館の所蔵品」として再出現しているのです。

2018年前後に東博がこの絵図を購入したという記録はありません。

当然に誰かが寄贈したものということになるのですが、その経緯に関してほとんど情報がないのです。

寄贈者の個人情報が知りたいということでは全くありません。

80年もの間、どのように「五馬図巻」が所有保管され、どうして今になって東博にもたらされることになったのか、そこが知りたいわけです。

この展覧会に関係したHP解説や図録を見ても、極めて奇異なことに、こうした情報が見受けられないのです。

 

他方、所蔵している東博のHPをみると「1089ブログ」の中に関連した記事を見ることができます。

www.tnm.jp

 

この東博スタッフによるブログでも「清朝滅亡後に日本に流出してからは、1928年の唐宋元明名画展覧会(東京帝室博物館、東京府美術館)に出陳されていますが、以降、2019年の「顔真卿」展まで、公開の機会に恵まれませんでした。」とあるだけです。

「80年間の空白」を埋める情報は何も記されてはいません。

 

この作品に関する研究における第一人者である板倉聖哲(東大東洋文化研究所教授)による図録の解説(P.139)にはもう少し詳しい来歴が記されています。

諸家の手を経たのち、清朝乾隆帝のコレクションに加えられた「五馬図巻」は、清末における混乱の中、ラストエンペラー宣統帝溥儀から彼の教育係だった陳宝琛、そしてその外甥、劉驤業の所有するところとなったようです。

1930(昭和5)年、骨董商、江藤濤雄の仲介により劉驤業から三菱の重役、末延道成(1855-1932)が買い取り、その3年後には堂々と重要美術品指定を受けています。

ところが、板倉の解説もここで突然「その後、行方不明となったが」となり、東博による再発見(2018年)までの経緯は何も記載されていないのです。

ウィキペディアをみるともっと詳しい来歴があるにはあるのですが、信憑性がよくわからないのでこれ以上の探索はやめました。

 

ここからはあくまでも妄想ですけれど、この「五馬図巻」を東博にもたらした人物(あるいはその人物の親族・関係者)は、末延道成から入手した後、長年の間、「見つかったらまずい」と思っていたのではないでしょうか。

「五馬図巻」はなにしろ乾隆帝のコレクションに入っていた作品です。

宋朝による西域の支配を象徴する図巻でもありますから、代々の清朝皇帝が受け継いできた一種の威信材的性質をもっていたと考えらなくもありません。

特に故宮のレガシーを数多く受け継いだ中華民国関係者の立場を想像すると、「五馬図巻」は彼らにとって失ってはならない財宝とみなされる可能性もあったわけです。

末延道成はちゃんと美術商を介して「購入」していますから法的な所有権移転については全く問題ないとみられます。

ただ、それ以前の、溥儀の手からこの作品が離れたプロセスは、ある種、どさくさ紛れ的であり、それ自体が「無効」だったと曲解されるリスクがゼロではないと考えられたのかもしれません。

つまり、この絵図を東博に寄附した人物は、単にコレクターとして自分だけが楽しむために秘蔵していたというわけではなく、敗戦からしばらくの間、関係筋からの「返還請求」を、ひょっとすると、懸念していたのではないでしょうか。

氏名身分を含め取得経緯自体の秘匿を条件に、そっと上野の博物館に託すことで、ようやく安堵したという寄贈者の雰囲気がなんとなく伝わってきます(繰り返しますがこれは私の妄想です)。

 

それはともかく、「五馬図巻」は、やはり大変な名作でした。

線描とわずかな彩色だけで馬と人物が巧みに描き分けられていて、一千年前の中華帝国という描かれた時間と場所を一気に超越して眼に迫るものを感じます。

さらに驚くのは、並列して展示されている「孝経図巻」との、スタイルの違いです。

「五馬図巻」が写実を超えたリアルさを丁寧に描写しているのに対し、「孝経図巻」はほぼシンプルな線描だけで人物景物がサラッと写されています。

しかしよく「孝経図巻」をみてみると、李公麟の筆自体はスタイルを違えつつも、事物の実態把握において「五馬図巻」と何ら変わらないレベルの真実性を達成していると感じます。

簡素な線だけでキャラクターの本質を掴み取ってしまう筆さばきに驚嘆しました。

 

燕文貴「江山楼観図巻」(部分・大阪市立美術館蔵)

 

さて、この今や米国に渡ってしまった「孝経図巻」もその再発見は最近のことです。

これも板倉聖哲の解説によれば、2019年、クリスティーズ香港に突然出現したのだそうです。

実は本作にもある日本人コレクターが関係しています。

東洋紡績(現東洋紡)の社長も務めた実業家、阿部房次郎(1868-1937)です。

この人の中国美術コレクションは、息子の阿部孝次郎によって1942(昭和17)年、大阪市立美術館に一括寄贈されたことで知られています。

「孝経図巻」はその阿部房次郎旧蔵品としてクリスティーズに出品されたそうですから、大阪市美に収められなかった彼のコレクションも当然にあったということなのでしょう。

ちなみに本展ではその大阪市美から北宋前期の画家、燕文貴の傑作「江山楼観図巻」が出展されています。

これも阿部コレクションを形成していた一巻で、大阪市美の中国美術収蔵品の中でも屈指の名品です。

「孝経図巻」と「江山楼観図巻」、阿部房次郎所縁の北宋絵画が、まるで再会を喜ぶかのように、展覧会の冒頭とクライマックスに展示されていたことも印象に残りました。

 

燕文貴「江山楼観図巻」(部分・大阪市立美術館蔵)

 

大半の作品が京阪神を中心とした近畿圏から出張していますが、展覧会の最後には、東京・大倉集古館が誇る国宝「古今和歌集序」が披露されています。

極めて有名な作品ですが、「北宋」をテーマとした本展とは、一見、関係がなさそうに思えます。

実は紀貫之の本文でも、藤原定実と推定される雅やかな筆でもなく、それが書かれた「唐紙」が本展の主役です。

多彩な文様がデリケートに豪華な宋代の料紙に表されていることがじっくり確認できると思います。

ひねりの効いたもう一つの主役作品でした。

 

なお本展は日時指定予約制です。

平日の昼間、それなりに鑑賞者はいましたがストレスを感じるほどではありませんでした。