特別展「東福寺」(後期展示)
■2023年11月7日〜12月3日
■京都国立博物館
10月7日からスタートしている京博の「東福寺」展。
非常に素晴らしい内容なので後期展示も鑑賞してみました。
かなりの作品が前期から入れ替わっています。
なお、東福寺自体の紅葉は11月中旬現在、まだ「色づきはじめ」の段階らしく、通天橋とのセットで東山七条を訪れていそうなお客さんはそれほどいないようでした。
今回の企画は東福寺に受け継がれてきた禅宗寺院としての文化財を網羅的にとりあげていて、書画、工芸、典籍、仏像と、あらゆる分野に見どころが仕込まれています。
ただ一般的にみて「眼に楽しい」展示となると、何といっても画僧吉山明兆(1352-1431)による一連の絵画群ということになると思います。
特に14年もの歳月をかけて修復されたという「五百羅漢図」の修理後初公開が大きな話題となっていました。
この「五百羅漢図」は全50幅から成り立っています。
大半である47幅を東福寺が所有しているのですが、3幅については幕末の頃、鳥取藩郷士であった松波徹翁という人物に喜捨への謝礼として譲渡され、以降は寺外にあります。
流出した3幅の内、2幅(第48,49号)は現在根津美術館のコレクションになっています。
残る1幅である第50号は長年行方不明となっていて、もはや再発見は困難であろうと判断した東福寺は、2018年、(有)六法美術の宮澤千砂子に依頼し、復元模写を制作しています。
ところが、まさに本展の企画中、明兆真筆の第50号がエルミタージュ美術館にあることが判明します。
その図録用画像に関しては、印刷直前のタイミングでロシアからの取り寄せがなんとか間に合ったのだそうです(本展では2018年模写を展示)。
エルミタージュでの再発見により、めでたく全幅が揃ったように思える「五百羅漢図」なのですが、よく知られているように、この50点、全て明兆が描いた原本が残っているわけではありません。
東福寺が蔵する47点の内の2点、第46,47号は、明兆ではなく狩野孝信(1571-1618)によって描かれた「写」なのです。
1530(享禄3)年、「五百羅漢図」は東福寺の外に全て散逸してしまいます。
足利義晴が将軍の時代ですから、もはや室町幕府に昔日の威光はなく、京都五山四位の大寺院、東福寺といえども畿内の混乱から逃れることはできなかったのでしょう。
東福寺は近所の泉涌寺などと違い、応仁・文明の乱でも大きく被災することはありませんでした。
逆に戦国の混乱期、経済的基盤が弱体化する中で、壮大な伽藍と寺僧たちの生活を維持しなければならなかったとも考えられますから、「五百羅漢図」もやむを得ず手放すことになったのでしょう。
その後、幸いにも「五百羅漢図」はほとんど東福寺に再寄進されたのですが、惜しいことに二幅のみ、戻ってくることはありませんでした。
江戸時代前期、この状況を憂いていたとみられる東福寺第二百二十三世、集雲守藤らによって後陽成天皇に奏請がなされた結果、天皇の命により、狩野孝信による二幅の再制作が実現しています。
なお、図録の解説(p.324)と年表(p.359)では、孝信による補作を1620(元和6)年と記していますが、孝信自身は1618(元和4)年に既に亡くなっています。
当然に1618年以前に制作されたとみるべきでしょうけれど、実際の制作年ではなく、正式に東福寺に収められた年をもって補作年としているのかもしれません。
それはともかく、狩野孝信は後陽成院の素晴らしい肖像画(泉涌寺蔵)も描いているくらいですから、天皇からの信任も篤かったのでしょう。
結果として、48歳で亡くなった孝信最晩年の成果が東福寺に残されることになりました。
東福寺には明兆が描いた羅漢図の「下絵」が豊富に残されています。
狩野孝信もおそらくこうした下絵を参考に46,47号図を完成させたとみられるのですが、一見して、明兆の作画スタイルとは明らかに違うことが感じられると思います。
特にわかりやすいのは岩の表現で、孝信補作ではなめらかに微細な明兆の筆とは違い、狩野派に典型的な立体感を重んじたスタイルの描画と陰影表現が駆使されています。
つまり孝信は、これが失われた明兆画の補作ではあるものの、決して下絵から単に「模写」をしようとしたわけではないのです。
あくまでも自身のスタイルを保持したまま、明兆の羅漢を写したということなのでしょう。
これは孝信のアーティスト気質による、というよりも「複製」という概念自体が今と当時ではかなり違っていたことによるのではないかと推測しています。
当時の複製補作とは、原画のイメージを正確に再現するのではなく、あくまでもその絵師自身が身につけた優れた手法による再創造が当たり前なのであって、それは発注者側である東福寺も十分了解していたと思われます。
事実、孝信の補作二幅は、明兆とは違うスタイルをとりつつも、決して原画に引けをとらない羅漢図として見事に仕上げられていて、その完成度は非常に高いと感じられます。
近世における「写」の精神も垣間みえる重要な展示でした。
さて、実は東福寺に明兆の「写」を残した絵師は孝信だけではありません。
狩野山楽、山雪、永岳、京狩野の絵師三人も関係していました。
まず山楽(1559-1635)です。
現在、東福寺にある巨大な「法堂」は、明治期に焼失してしまった堂宇を昭和に入ってから再建したものです。
堂本印象による龍の図が天井に描かれていることで有名ですけれど、焼ける前の法堂天井にも当然に龍が描かれていました。
これを描いた人物が狩野山楽とされているのです(図録P.350)。
そして山楽の前、当初の法堂天井に龍を描いていたのは、他ならない、明兆でした。
桃山時代、落雷などによって既に損傷が激しくなっていたという明兆による天井画の補作をまず命じられた絵師は、あの狩野永徳だったそうです。
ところが永徳が突然亡くなってしまったため、山楽が後を受けて新作したとされています。
したがって山楽がどの程度、明兆を「写」したのかはわからないのですが、後にわざわざ天皇に命じてもらった上で孝信に羅漢図の補作を依頼しているという東福寺の格式を重んじる姿勢を考えると、「画聖明兆」の原画天井龍を全く無視して自由自在に山楽に描かせるということは考えにくいように思えます。
山楽が、ある程度、明兆の龍を尊重して描いたとすれば、ここにも狩野派による「明兆写」があったことになります。
ただ、前述の通り、山楽が天井龍を描いた法堂は明治になって焼失していますから、その絵図を直接確認することはできません。
しかし幸いなことに、京狩野九代を名乗った狩野永岳(1790-1867)が、この山楽筆と思われる旧法堂天井画を写しているのです。
「蟠龍図」という金地の墨画で、今回、出展されています。
ざっくりとしたスピード感とダイナミックさが素敵な現在の堂本印象画とは全く違う、濃密にうねる龍が確認できます。
前述したように近世における「写」とは単なる模写とは違いますから、永岳による山楽の写(それ自体が明兆の写)が、どこまで天井画を忠実に再現しているのかはわかりませんが、かつて明兆が描いた龍のうっすらとしたイメージは伝えてくれているのかもしれません。
さて、最後に京狩野二代にあたる狩野山雪(1590-1651)です。
東福寺には「五百羅漢図」とともに有名な明兆による連作仏画「三十三観音図」があります。
ところが1412(応永19)年に描かれたとされるこの33幅に関しても、「五百羅漢図」と偶然にも同じ枚数、つまり2幅がいつの間にか無くなってしまっていたのです。
この補作を命じられた絵師が山雪でした。
1647(正保4)年に完成させています。
本展にはこの山雪補作2点の内、「観音天龍夜叉図」が展示されています(もう一幅は「観音天大将軍身図」でこれも東福寺にあります)。
補作の発注者は山楽以来のパトロン九条家、関白経験者の幸家(1586-1665)です。
山雪はこの観音図二幅による成果が認められ「法橋」に叙せられることになりますから、いわば彼の出世作ともいえる重要な絵画です。
本作では、孝信以上に山雪独自のスタイルが貫かれています。
この絵師を特徴づける神経質なまでの線描へのこだわりと幾何学的な造形リズムがはっきりと確認できます。
図像自体は典型的な観音図が採用されていて、明兆あるいは中国典籍にみられるスタイルを遵守していますから、もととなった「三十三観音図」が意識されているのは当然なのですけれど、完成図はもはや明兆とは全く画風が異なっていて、一目で山雪とわかるくらい独特です。
重要なことは、ここでも「写」という概念自体が現在とは全く異なっているということでしょう。
明兆とは明らかに違うスタイルで仕上げられたにも関わらず、山雪はこの作品で出世しているわけです。
このことから、描く側もそれを観る側も「そっくり複製する」ということをさほど重要視していないことがわかります。
といって、現代アーティストのように極端なオリジナリティを求めているわけでも当然にありません。
完璧に似せるというより、図像の本質を維持した上で、画の「格」として原画と釣り合っているか、そうしたことが近世当時の評価基準になっていたのではないかと感じました。
永徳の次男狩野孝信は光信亡き後の狩野派を一時率いていた重鎮にして初めて宮廷絵師に任じられた人物です。
京狩野初代山楽は大スター狩野永徳の急逝を受けて天井龍の仕事を任された実力者。
そして二代の山雪は東福寺の実質的な大檀家ともいえる九条家から補作を依頼されています。
つまり、正式に「明兆」を「写」すということは絵師としてそれなりのステイタスと実力が必要とされていたのでしょう。
逆にいえば、明兆がいかに東福寺にとって重要な画聖だったのか、これら狩野派による「写」の仕事にそれが表れているといえるのかもしれません。