特別展 表装の愉しみ -ある表具師のものがたり
■2023年11月3日〜12月10日
■泉屋博古館
来年から2025年の春まで改修工事に入る鹿ケ谷の泉屋博古館。
一時休館となる前、最後の企画展が開催されています。
「表装」にスコープがあてられていますから、ちょっと地味そうな内容を想像してしまいますが、国宝「秋野牧牛図」や重文「佐竹本三十六歌仙絵切 源信明」など、このミュージアムを代表する名宝が散りばめられた見応え十分の特別展です。
特別展 表装の愉しみ -ある表具師のものがたり | 展覧会 | 泉屋博古館 <京都・鹿ヶ谷>
一般的な鑑賞者として日本絵画と向き合う場合、表装を強く意識して作品を眺めることはあまりないと思います。
むしろ、いわば外枠であるこの部分の方が目立ってしまっては困るわけで、作品本体を引き立てつつ邪魔をしない役割が表装には求められています。
しかし、その書画の所有者、あるいは館蔵品として取り扱う学芸員等の身になって考えてみると、表装はかなり重要なファクターとして、半ば作品と一体化した存在なのではないでしょうか。
デリケートな絵画本体を保護しつつ作品自体に品格を与える表装は、たとえば掛軸として吊り下げて展示するとき、まず所有者や学芸員が書画本体の前に目にするパートでもあります。
作品本体のコンディションを知る上で非常に重要な部分であるのはもちろん、書画を「開く」、その直前の愉悦と緊張感が最高度に高まるシーンを彩っているのは、実は、表装なのです。
表装は、その持ち主や管理者たちにとって、作品本体と変わらないくらい、思い入れが染み込んでいく部分かもしれません。
また、近衛家煕(予楽院)のように、表装に独特の感性を発揮し、それ自体が所有者独自のスタイルを形づくった例もあります。
数寄者として書画の大コレクターであった住友春翠(第十五代住友吉左衛門友純 1865-1926)も、予楽院ほどではないにせよ、当然に表装には大いに気を配っています。
本展では春翠と昵懇の仲にあったという、大阪の表具師、古今堂の三代、井口邨僊(1867-1941)の仕事にも焦点をあて、貴重な綸子の断片など様々な表具素材が展示されています。
住友家は、伝三郎の藤田家とともに、古今堂にとって別格の得意先だったそうです。
古今堂の店先を再現したようなコーナーには、「ああでもないこうでもない」と表装について楽しく語りあったと思われる春翠と邨僊の息遣いが伝わってきそうな臨場感が漂っていました。
さて話題は大きく変わりますが、まもなく、青山の根津美術館において、徽宗筆とされる「桃鳩図」が展示されます(「北宋書画清華展」内の限定展示 2023年12月1日〜3日)。
極めて公開機会が少ない国宝なので楽しみにしているファンの方も多いのではないでしょうか。
ただ、わずか3日間の展示ですから、なかなかタイミングが合わないという人が大半ではないかと思います。
そんな方におすすめできるかもしれない、ある「桃鳩図」が、現在、ここ泉屋博古館で披露されています。
狩野探幽(1602-1674)の筆による徽宗図の「写」一幅が、華麗にシックな表装とともに展示されているのです。
一見して「徽宗の鳩」であることがわかるくらい、中華皇帝の図像が見事に再現されています。
さすが探幽、と思うわけですが、観ていると次第になんとなく元となっている徽宗画とは雰囲気がかなり違うことに気がつくと思います。
鳩の、特に頭部が妙に「平べったい」のです。
徽宗の鳩はそのフォルムが独特であることでもよく知られています。
スタイルの中にいくつもの「円形」が強く意識されているため、実際の鳩よりも「丸い」感じに描かれていて、それがなんとも言えない気品と柔らかさを生んでいます。
一方、探幽の写した図では、かなり本物の鳩が意識されているように感じられます。
頭部が徽宗鳩のような円形ではなく楕円に近い形状をしています。
彩色も実物の鳩をイメージしたようなやや複雑な色味が選択され、徽宗画に特徴的な首から胸にかけてのエメラルドグリーンもみられません。
他方、筆使いや描線自体をみると徽宗筆よりもくっきりとしながら、やや単純化されていますから、原画のもつ繊細な柔らかさはいくぶん後退し、硬さが少し優勢となっています。
写実を意識しつつも徽宗に比べるとやや手を抜いているとでもいいましょうか、ちょっと矛盾した手法が組み合わされた「模写」であるように見えなくもありません。
しかし、探幽のテクニックは本来、徽宗(あるいはその画工房)と遜色ないくらい高度なものであり、実際、院体画級のクオリティで仕上げられた繊細な花鳥画などが残されています。
彼が本気で模写しようと思ったのであれば、原画と見紛うほどのレベルが十分達成できたと想像できます。
つまり、探幽は、あえて、この名作の単なる「コピー」を描こうとはしていないと解釈できそうなのです。
あくまでも「徽宗そっくり鳩」をめざしたとすれば、鳩の頭の形がこれほどまでに違うことはありえません。
探幽は徽宗をリスペクトしつつも、きっちり自分がイメージした鳩を自分の手法で描いているのです。
国宝「桃鳩図」が発するオーラはさすがにないものの、狩野探幽による「写」も、これはこれでとても味わい深い傑作だと思います。
先日、京都国立博物館の「東福寺」展において、狩野孝信(探幽の父)や狩野山雪による明兆の「写」を観たときも実感したのですが、近世初頭における狩野派絵師たちは、たとえ「模写」であっても、自らの手法、スタイルをしっかり保持することを前提に仕事をしていました。
探幽も、おそらくその気風を受け継いでいたのでしょう。
室町将軍家から伝わった至宝である徽宗の「桃鳩図」においても、自身のスタイルを曲げることはしていないのです。
ところが、探幽より後の世代、狩野常信(1636-1713)の頃になると、このスタンスが一変します(常信による「桃鳩図写」の存在については泉屋博古館「日本画」図録P.191を参考にしました)。
常信は探幽の弟、尚信の子で、叔父探幽の影響を少なからず受けているとされる絵師です。
しかし彼が写した徽宗「桃鳩図」は、その探幽よりも本物に「そっくり」なのです(本展には展示されていません・東博のデータベースで確認できます)。
探幽があえて避けた、徽宗鳩の頭にみられる極端な「丸み」も含め、常信は原画を忠実に再現しようとしていることが明確に伝わってきます。
それが証拠に、探幽は省略していた、原画にある落款まで丁寧にコピーされています。
常信も決して凡庸な絵師ではなく、その技巧は超一流のレベルでした。
ただ、この頃になると、いよいよ狩野派の「流派」としてのスタイルが固定化してくるのも事実で、絵師各々の個性というよりも流派全体の「型」がより一層重要視されてきます。
想像すると、常信はもはや彼自身のスタイルというよりも「技巧」そのものを強みとして徽宗を写したともいえそうです。
幕府奥絵師としての立場が盤石になるにつれ、固有の作風で勝負する必要性が希薄となった常信の時代に求められた「鳩」は、皮肉なことに「徽宗そっくり画」だったということかもしれません。
紅葉の名所永観堂がすぐ近くにあるのですが、泉屋博古館は観光客による混雑害とは無縁のようで快適に鑑賞できました。
しっかりメンテされた庭の木々が美しく色づいています。
来年はここを訪れることができないと思うと少し寂しくなりました。
再開を鶴首しています。