奈良原一高 Ikko Narahara ジャパネスク 〈禅〉
■2022年4月9日〜5月8日
■両足院
現役で活躍している気鋭のフォト・アーティストたちの紹介が中心のKYOTOGRAPHIEですが、今年はギイ・ブルダン、アーヴィング・ペン、奈良原一高と物故した大家を3人もとりあげています。
ブルダン、ペンに続き、建仁寺塔頭両足院で開催されている奈良原一高展を覗いてみました。
今回で第10回目となる京都国際写真祭。
その第1回では細江英公の作品が高台寺圓徳院で展示されています。
かつて東松照明等とVIVOを結成し日本写真史に名前を刻んだ細江英公、奈良原一高。
10回目を記念し、初回の細江に呼応するかたちで今回は奈良原の特集が組まれたのかもしれません。
ブルダンはシャネル、ペンはディオールがスポンサーとなっていました。
奈良原一高はロエベ財団がサポートしています。
展示会場でブランドを強く意識させたシャネルやディオールとは違い、見落としていただけかもしれませんけど、ロエベは存在を消していて、展示室内でロゴ等に気が付くことはありませんでした。
LOEWE FOUNDATIONはもともとクラフトに関係したアートを支援していて、前回のKYOTOGRAPHIEでは四代田辺竹雲斎が二条城に構築した巨大な竹のインスタレーションに関与していました。
今回は写真芸術そのものをサポートしたことになります。
KYOTOGRAPHIEのプロデュース力に驚きます。
京都文化博物館内のブルダン展で展示デザインを手がけている おおうち おさむ が両足院でもセノグラフィーを担当しています。
長細い四角の立体フレームがいくつも並べられ、奈良原のモノクロームを支えています。
観る角度によって複数の写真が重なり、庭園の緑と共鳴しあう仕掛け。
多くのみどころが生まれていたように思います。
しかし、奈良原による〈禅〉のエッジがとてつもなく効いた写真群は、私見ですけれど、ある程度、空間的な「余白」による沈静化が必要なようにも感じます。
工夫が凝らされた展示なのですが、写真と写真が近接に重なりすぎて、全体としてみるとどうにも落ち着かないのです。
視点を動かすことを促しているような展示構成がもつ面白さと、じっくり奈良原が捉えた瞬間を凝視したい欲求が、ときにハレーションを起こしてしまったようです。
両足院の庭自体が禅宗寺院としては結構賑やかな緑と水に彩られているので、余計、視覚的情報量が多くなり、眼が忙しくなってしまうことも関係しているかもしれません。
寺院や町屋などの和空間における写真の展示は、壁面がほとんど使えないので、畳床とどのように位置関係をとるかで展示演出の傾向がほぼ決まってしまいます。
土壁や障子と並行してフラットな展示面を垂直に建てて設けると、全く和室の味わいがなくなってしまうし、かといって単にイーゼルを並置してもダサい空気が立ち上ってしまうように感じます。
例えば今回、誉田屋源兵衛の奥座敷で展示されているイザベル・ムニョスの作品のように、床に近く、畳と並行、またはやや斜めに傾斜をつけて展示すると格好がつきますが、動と静がダイナミックに交差する奈良原の〈禅〉では、床に近づくほどその世界観と遠ざかりそうな気もします。
そこを立体のフレームで解決しようというアイデアは素晴らしいのですが、実際の効果はやや混沌気味に感じました。
京都では寺院内でモダンアートを展示したりすることがままあって、それなりに意図としては納得できる企画が多いのですが、和空間って意外と排他的な面を持っていたりもします。
第1回の細江英公の展示は、実物をみていませんが、当時記録された圓徳院内の展示風景を見ると、襖自体に写真を取り付けているようにみえます。
おそらくこういう展示、つまり和の枠組に抵抗することなく、「はりついてしまう」方式の方がしっくりはきそうです。
とはいえ、型に縛られないのがKYOTOGRAPHIEの持ち味ですから、これからも大胆にハレーションを起こしそうな展示に期待したいと思います。