狩野尚信 二条城 黒書院の障壁画

 

〈黒書院〉の桜と山水 ~対面所に見る和漢の競演~

■2022年4月21日~6月19日
■二条城障壁画 展示収蔵館

 

狩野尚信(1607-1650)は、狩野探幽(1602-1674)の5歳年下の実弟です。

あちらこちらに多くの作品を残した探幽に比べると、比較的若く亡くなったこともあってか、ぐっと残存作が少ない絵師。

知名度もお兄さんほどではありません。

 

二条城「黒書院」には若き日の尚信が描いたとされる大画「桜花雉子図」が残されていて、現在、城内の展示資料館で公開されています。

一昨年に続き昨年も同じ障壁画が公開されたはずですが、ちょうどコロナ制約が厳しい時期と重なってしまい、2年続けて見逃していました。

 

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二条城障壁画は、1626(寛永3)年に製作されています。

その頃、尚信はまだ20歳にも満たない年齢です。

 

野志学芸員の解説によると、尚信はこの障壁画を「狩野派ベテラン絵師のサポートを受けながら描いた」とされています。

もっとも、棟梁の探幽にしても当時は20歳代前半ですから、黒書院に限らず、後水尾天皇行幸に際して製作されたこの二条城障壁画群は、京狩野の山楽を含め、狩野派一門が文字通り総力を結集して筆を握った大仕事でした。

 

探幽や山楽が描いたとされる「大広間」の松や鷹、孔雀のキリッとした図像に対し、「黒書院」一の間・二の間を飾る障壁画はがらりと題材が変わっています。

 

将軍が背にする北側の一面を除いて、松は桜に置き換えられ、あたりに睨みをきかせるような鷹や孔雀の姿は見えません。

代わりに雉子や小鳥の類が自在に振る舞っています。

「大広間」を支配していた威風よりも、「黒書院」ではあきらかに典雅さが優先されています。

 

 

雰囲気の決定的な違いは、「大広間」と「黒書院」の、その使われ方の差異から生じています。

 

将軍が大勢の大名たちと謁見することを想定している「大広間」よりも、その奥に連なる「黒書院」はひとまわり小さく設計されています。

「黒書院」は、徳川将軍が、天皇の勅使をはじめとする公家や、将軍家に近い大名といった限られた階層と面談するための空間。

「大広間」と違い、ここで会う人々を、巨大な松や鷹でとり囲んで威嚇する必要はありません。

むしろ、その室内装飾にはゆったりとした気品や格調高さが求められることになります。

鷹も虎も当然にこの間からは遠ざけられているわけです。

 

いくぶん剥落が見られますが、十分、尚信と熟練狩野派絵師たちによる優美な絵画世界が残されています。

特に二の間の南側障壁画は極めて状態良く保存されていて、土坡の緑青と桜の薄い紅色、そして煌びやかな金箔の織りなす色彩美によって素晴らしい景色がとどめられています。

 

面白いのは「桜花雉子図」の上方、長押上貼付に全く違った図像が描かれている点です。

「楼閣山水図」と題された中国の風景が見えます。

華麗な桜花に対し、色彩が極めて抑制されたシックな山水世界。

余白を大きくとりながら緻密に中国風の楼閣が描かれています。

これも中野学芸員によると、技法自体が「桜花雉子図」と「楼閣山水図」では違っていて、絵師も後者については狩野尚信が関わっていないとされています。

 

「楼閣山水図」では地となる金箔の輝きもぐっと渋く重みが増しています。

上下に置かれた両図を比較すると、下の「桜花雉子図」の方が近景に見え、上の「楼閣山水図」が遠景に見えてきます。

金箔の使い方を工夫することで、遠くの景色はより遠く、近い景色はより近くに感じられるような技法が仕組まれているのではないかとも思えます。

また「桜花雉子図」では桜を囲むように衝立や垣根のようなものが配され、立体感を意識させる構図上の工夫もみられます。

手前の笹のような植物に関しても、実際の見え方よりもかなり大きな比率で描かれています。

つまり「楼閣山水図」より近景である「桜花雉子図」自体の中にも、遠近の関係を強調する描画の妙が入念に仕込まれているのです。

 

今回あらためて「黒書院」一の間・二の間の障壁画をじっくり鑑賞し、実に手の込んだ寛永狩野派集団のテクニックに圧倒されました。

 

2022年初夏、二条城にも平日は修学旅行生の集団が戻ってきているようですが、展示収蔵館の中までは彼らの見学範囲に入っていないようです。

探幽や山楽に比べると地味なこともあり、混雑害はまずないと思います。

静かに先月の桜を追想できました。

二条城 黒書院