現在、MIHO MUSEUMで開催されている「懐石の器」展(2022年3月19日〜6月5日)では、近衛家熙(予楽院)が催した茶懐石に因んだ展示コーナーが設営されています。
中でも特に目をひく器が「白磁無地金彩馬上盃」。
別名「金琺瑯」(きんぽうろう)、陽明文庫の所蔵品です。
近世宮廷文化に関係した展覧会等に出展されることが多い工芸品です。
私は、2008(平成20)年、東京国立博物館で開催された「宮廷のみやびー近衛家1000年の名宝」展で初めてこの作品を目にしました。
また、つい最近、昨年2021年7月、京都国立博物館が開催した「京の国宝」展にも出展されていて、久しぶりにその美しさに感銘を受けたばかり。
そして今年、信楽の山奥でまた再会したことになります。
何か因縁めいてきたので気になり、昔の図録を引っ張り出して調べてみました。
非常に特異な形状をしている器です。
お椀の下に長い脚台がついています。
「馬上盃」と呼ばれる形状で、この脚台は馬の上で酒を飲むためにつけられた把手のようなものと解釈されるようです。
しかし、蓋までついた「金琺瑯」のデリケートな姿をみると、豪快に馬上で使われることが想定されているとはとても思えません。
近衛家熙はこの器を「菓子器」として使っていました。
家熙による茶会の内容を記録していた山科道安の『槐記』には、実にさまざまなお菓子が金琺瑯に盛られて供されたことが記されているそうです。
ただ、馬上はともかく、懐石の場で使われるにしても、あまりにも不安定な形をしています。
MIHO MUSEUMの展示では、蔓のような繊維で編まれた台座が金琺瑯を繊細に支えていました。
それにしても奇妙なくらい洗練されたデザインです。
金一色でムラなく塗られた外観。
蓋の上に鳥のような造形が確認できます。
かなり抽象化されていて、全体としてモダンな雰囲気すら漂わせています。
蓋がついている状態で展示されているため、器の内部を見ることはできませんが、見込には丸くデザイン化された漢字で「萬壽斉天」とうっすら刻まれているのだそうです。
ところで金琺瑯は日本で作られたものではありません。
現在、金琺瑯についておそらく最も詳しい知見をもっていると思われる京博学芸部 尾野善裕部長の解説(「京の国宝」展図録P.250)を参考に、近衛家の名宝を守ってきた陽明文庫にこの器物が収蔵されたプロセスをたどってみると、以下の通りです。
18世紀前期、近衛家熙に金琺瑯をもたらした人物は息子の近衛家久です。
関白を務めていた家久へ、親しい関係にあった薩摩藩島津家がこの器を贈答。
それを前関白の父親に家久が献上しました。
島津家は金琺瑯を当時の琉球王国から入手しています。
近年、琉球の正史である『中山世譜』と、清朝の公文書、その双方に、金琺瑯のことを指していると思われる記述が確認されました。
このことから、金琺瑯は、1723年、清の雍正帝即位にあたって派遣された琉球使節団に皇帝から下賜された品々の中に含まれていたことが確実視されているのだそうです。
つまり、この小さな黄金に輝く異形のモダン陶器は、清朝から琉球、薩摩、そして京都の近衛家と到来したということになります。
おそるべき由来をもった器に予楽院はお菓子を盛って懐石の場を楽しんでいました。
なんとも壮大かつ可憐なエピソードです。
当時の清朝帝室陶器工房がもっていた技術力と洗練されたセンスにも驚きます。
尾野部長によると、陽明文庫の金琺瑯とほとんど形状を同じくする器が台湾の故宮博物院にも収蔵されているのだそうです。
と、ここまで陽明文庫の金琺瑯について確認してみました。
ただ、実は、日本にはもう一つ、これによく似た器が残されているのです。
永青文庫が所有している「金琺瑯蓋付馬上盃」。
関口台の永青文庫内でも展示されたことがもちろんありますが、2010年、東京国立博物館で開催され、京博や九博にも巡回した「細川家の至宝」展でも展示されています。
東博の今井敦特任研究員がこの器の解説を図録の中で執筆しています。
シンプルなドーム上の形状を持つお椀部分に把手のような脚台がついた「馬上盃」スタイル。
なめらかに全面コーティングされた金。
どう見ても陽明文庫の金琺瑯と同系統の器です。
違いは蓋の上にのっている動物で、陽明文庫の鳥に対し、永青文庫では獅子になっています。
内部に彫られた漢字も違っていて、陽明文庫は「萬壽斉天」でしたが、永青文庫では「上元笈第」となっているそうです。
ただ、見込側面に4字と底に1字を彫り込んだスタイルは両者一致しています。
永青文庫の金琺瑯を入手した人物は、他ならない、細川護立です。
周知の通り、細川家と近衛家は非常に近しい関係にありますから、永青文庫の金琺瑯も近衛家とのつながりからもたらされたもの、とみてしまいがちですが、事実はそうなっていません。
東洋美術のコレクションにも熱心だった護立に金琺瑯をもたらしたのは、今も続く日本橋の老舗古美術商、「壺中居」の広田松繁(不狐斎)でした。
もともとは三井家に伝わった品といわれています。
つまり、細川護立の金琺瑯入手経路は、近衛家とは全く違ていて、近代に入り、いわば、普通に古美術商から買った、ということになります。
ただ、三井の前は誰が持っていたのか、それは謎です。
もし近衛家熙がこの「獅子」を持つ金琺瑯も所持していたとすれば、几帳面な山科道安が『槐記』に記載しているはずですが、それが確認できないところをみると、別ルートで三井家に入ったと考えざるを得ません。
なお今井特任研究員によれば、永青文庫の金琺瑯と同じパターンの器が、東洋美術で有名なスイスのバウアー・コレクションにも収蔵されているのだそうです。
近衛家と細川家、ゆかりの深い両家の「文庫」各々に金琺瑯が伝来しているわけですが、それぞれ全く違う経緯で入手しているところが、ミステリアスな魅力をも付加しています。
もとをたどれば、雍正帝から琉球国王に贈られた由緒をもつとみられる金色の器。
現在、東博では沖縄本土復帰50年記念の「琉球」展が開催されています。
陽明文庫からは、琉球から近衛家熙に贈られた「孔林楷杯」などが出展されていますが、同じような由緒を持つ「金琺瑯」も、信楽ではなく、上野で披露された方がタイミングとしてはふさわしかった、かもしれません。
《参考図録》
「宮廷のみやびー近衛家1000年の名宝」(2008年 東京国立博物館他)
「細川家の至宝 珠玉の永青文庫コレクション(2010年 東京国立博物館他)
「京の国宝」(2021年 京都国立博物館他)
「懐石の器」(2022年 MIHO MUSEUM)