四百年遠忌記念特別展 大名茶人 織田有楽斎
■2023年4月22日〜6月25日
■京都文化博物館
ざっと8割くらいの展示品が、建仁寺の真北に位置する塔頭、正伝永源院から出展されています。
実態からみると「正伝永源院展」としても良さそうな内容ですが、展覧会のタイトルとしては、地味な寺名をとるよりも、この寺院に縁の深い織田長益、有楽斎如庵(1547-1622)の名前がもつ訴求力が優先されたのでしょう。
全体として、派手さはありませんが、近世初期の人物ネットワークがじんわりと浮かび上がるような、噛みごたえのある企画だと思います。
正伝永源院が秘蔵する文書を中心に、大量の織田有楽斎に関連した書状が展示されています。
その中に、細川忠興(1563-1646)が有楽斎に送った書状(大阪青山歴史博物館蔵)がありました。
(金地院崇伝への取りなしを有楽斎が忠興に依頼したことへの返信)
ちょっと因縁めいたものを感じました。
というのも、現在の正伝永源院は、近代になってから、もともと細川家ゆかりの建仁寺塔頭「永源庵」があった場所に、有楽斎が再興した「正伝院」が移転して成立した寺院だからです(旧正伝院自体は、現在の祇園甲部歌舞練場あたりにありました)。
明治の廃仏毀釈で、廃寺扱いとなってしまった永源庵の「フレーム」を受け継いで、「コンテンツ」として入って存続したのが正伝院でした。
しかし、「永源」の名が途絶えることを憂いた当時の細川侯爵家が乗り出し、相応の財政援助を行うことを約した上で寺名を「正伝永源院」とすることで決着しています。
(以上は本展図録に寄稿している真神仁安 正伝永源院閑栖の解説文を一部参考にしています)
現在、正伝永源院には、元首相細川護煕の描いた襖絵があります。
正伝院から受け継いだ有楽斎関係の歴史的文物を有しつつ、細川家が今も関係しているという、現況の一端がみてとれます。
京都ではよくあることとはいえ、非常に複雑な歴史をもった寺院です。
忠興と有楽斎が書状のやり取りをしていた当時、明治以降にこんな形で細川と織田が結びつくということなど、二人は想像することすらできなかったでしょう。
さてこの展覧会、最大の見どころはなんといっても正伝永源院の方丈室中を飾る狩野山楽(1559-1635)の筆とされる「蓮鷺図襖」だと思います。
本展のアートワークにその一部が使用されている煌びやかな障壁画。
稀に、寺内で特別に展観されますが普段は非公開となっている、やや秘仏的な絵画です。
なお、現在は正伝永源院(つまり旧永源庵の建物)の中にぴたりと収まっているように感じる襖図ですが、これは本来、旧正伝院にあったものである点に留意が必要です。
正伝院から「一夜にして移された」と言い伝えがあるそうです。
それだけ寺宝として重要視されていたということなのでしょう。
かつて一度、正伝永源院内で「蓮鷺図」の襖絵を直接鑑賞したことがあります。
仄暗い室中に蓮の白い花がぼんやりと浮かび上がる幽玄な美に陶然としてしまった記憶が残っています。
今回文博はこの傑作を寺内で飾られている配置を意識しつつたっぷりとしたスペースをあてがい、三方から鑑賞者を取り囲むように展示しています。
類例のない美観が展示室内に創造されています。
フラットな照明光のもとに一覧すると、この障壁画がもっている一種異様な雰囲気にも気がつくことができると思います。
とにかくその執拗なまでの「緑」が素晴らしいのです。
寺内での鑑賞では金箔や蓮の白さが際立っていたのですが、モコモコと連なる蓮の葉の大胆なデザイン性と深い色味が、展示室空間では圧倒的存在感を放っていて、まるで蓮池の中に取り込まれてしまったような気分すら覚えるほどです。
この景色の素晴らしさは、残念ながら、写真などからは全く伝わらないと思います。
ちょっと大袈裟にいえば、これは、「モネの睡蓮」に匹敵する、「山楽の睡蓮」としてもっと知られても良いくらいの大傑作ではないでしょうか。
さて、この企画展は、随分と京都展から時間が空いてしまうのですが、来年2024年の1月31日から3月24日まで、六本木のサントリー美術館に巡回します。
図録にはサントリー美術館の石田佳也学芸部長が寄稿した、「蓮鷺図」に関するコラムが記載されています(「旧正伝院客殿障壁画と蓮鷺図襖について」P.94)。
彼は、「蓮鷺図襖」が山楽筆と判断されていること(東博の山下善也説)を、否定こそしていませんけれど、決定的に是認もしていないような姿勢で論を進めています。
大覚寺の山楽による「牡丹図襖」と比較すると、「奥行き」が感じられないし、植物の表現も「単純に縁取られているにすぎない」と、コメントしていて、どうやら、山楽と断定することについては、態度を「留保」しているようにも思えます。
一方で、「大胆に素材を限定しながら、金雲をともなわない総金地を背景として、コントラストの強い明快な色彩を配置する」と特筆点を整理し、「伝統的な『蓮池水禽図』を近世初期の大画面に展開させた画家の手腕は見事である」と絶賛もしていて、最終的に山楽説を退けるつもりはないようでもあります。
実は私も、この障壁画を最初に正伝永源院で観たとき山楽筆と解説するボランティアの方に「本物ですか?」と、かなり失礼な質問をしてしまったことを思い出しました。
当然に答えは「本物です」だったのですが、石田佳也が指摘するように、やはり大覚寺の牡丹図との雰囲気の違いや、さらに二条城障壁画(大広間四の間「松鷹図」)にみられる豪勢さと比べ、妙にデザイン性が強調されたその図像に、「山楽」と断定することへの違和感はあったのです。
石田佳也はこのコラムの中で特に指摘はしていませんけれど、山楽晩年の絵には、弟子である京狩野二代、狩野山雪(1590-1651)が、師を助けて筆をとった部分も多かったのではないかと一般的には推論されています。
特に蓮の表現にみられる極端に整理された造形美は、ひょっとすると若き山雪のセンスがかなり入り込んでいるとみることはできないのかなあ、とも感じました。
こんな邪推をあらためてしたくなるほど、今回の展示は襖図の全貌を現していて素晴らしく、「金」、牡丹の「白」、そして蓮の「緑」に囲まれながら、随分と長い時間、過ごすことになりました。