季節のはざまで|ダニエル・シュミット

 

ダニエル・シュミット(Daniel Schmid 1941-2006)監督による「季節のはざまで」(Hors saison 1992)のデジタルリマスター版が先月から各地のミニシアターで上映されています。
同時期に公開されている「デ ジャ ヴュ」に引き続き鑑賞してみました。

長い年月を経ての再鑑賞です。
格段に滑らかさと奥行き感が増した映像の美しさにリマスタリングの効果を感じました。
撮影はお馴染みのレナート・ベルタ(Renato Berta 1945-)です。

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「山の中」にあるというホテルが舞台の映画です。
ダニエル・シュミットはスイスの山中にあった祖父母が経営するホテルで幼少期を過ごした人として知られていて、このモチーフは「今宵かぎりは・・・」などの初期作品から既に確認することができます。
「季節のはざまで」はとても単純にいってしまえば撮影当時50歳代を迎えていたシュミットが幼い頃を追想した作品であり、彼と同じくらいの世代にあったサミー・フレイ(Sami Frey 1937-)演じる主人公の「語り手」はシュミット自身が色濃く投影された存在といえます。

公開当時、あまりにも角が取れてしまい、円熟した文芸映画作家然となってしまったシュミットの作風にがっかりした記憶が残っています。

しかしあらためて見返してみるとこの映画には独特の「時間」が存在していたことに気がつきました。
ここに描かれている情景は過去でも追憶でもありません。
そのことは初めて観たときにも感じていたことです。
あくまでもシュミット自身が創造した幻想の世界が描かれた映画です。
昔に見たときはそれが単に美化されたエピソードの連なりのように思われたのですが、今回の再上映を鑑賞して認識を少し改める必要があると感じています。

「季節のはざまで」の中において流れているように感じられていた時間は、実は全て「停止」していたのではないか。
そんな感覚の余韻を味わっています。

シュミット作品の常連であるイングリット・カーフェン(Ingrid Caven 1938-)が「ラ・パロマ」のときと同じような歌姫役で登場します。
しかしその歌い方はホテルでのナイトショーを盛り上げるというより子守唄を聴かせるように脈拍を鎮静化させるテンポをとっています。
生きながらにして時間の流れとは関係のない寓話的存在になってしまったかのようです。

 


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古き良き時代のホテルに集う一癖ありそうな客たちが描かれているといっても、この作品からは、ウェス・アンダーソンが「グランド・ブダペスト・ホテル」でみせた豪華な軽妙さではなく、止まって動かなくなってしまった時間とそれによって生じる死の気配がうっすらと漂っているように感じられてくるのです。

「季節のはざまで」の持つ空気感はどことなくフェリーニの「そして船は行く」と共通したところがあるように思えます。
あるオペラ歌手の遺灰を海へ散じるために豪華客船に集った客たちを描いた「そして船は行く」はかつてのフェリーニ映画がもっていた生命力のようなものがほとんど消失し全体が文字通りお葬式のような雰囲気をもった作品でした。

「季節のはざまで」はある男による幼少期の追想劇という外面的な枠組みだけみてしまうとあまり面白味がある作品ではないのですけれど、多彩に豊かなパーソナリティをもった登場人物たちをシュミットなりに「葬送」している映画として観ると物語に不思議な奥行きがでてくるように感じます。
画面の裏に漂っている遺灰が撒かれたような気配に気がついたとき「季節のはざまで」は複雑な妙味をもちはじめるのです。
そこにはフェリーニが弔った「オペラの死」としての「そして船は行く」が微妙に影響しているようにも思えます。
主人公の祖母役をフェリーニの妹、マリア・マッダレーナ・フェリーニ(Maria Maddalena Fellini 1929-2004)が演じていることもそれを裏付ける要素の一つといえるかもしれません。

 


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以前、この映画のアートワークには幼い頃の主人公ヴァランタン役を演じた少年が貝殻に耳をあてるシーンが中央に大きくあしらわれていました。
今回のリバイバル上映のポスターではさすがにあのイメージがこの映画の本質ではないということに気がついたのか、一人ホテル内に佇むサミー・フレイをキービジュアルとして採用しています。
ゴダールの「はなればなれに」で天才的なマジソンダンスのステップを披露し、クロード・ソーテの「夕なぎ」でロミー・シュナイダーイヴ・モンタンに挟まれる難役を好演したフレイも「季節のはざまで」撮影当時は50歳代半ば。
そろそろ初老感が見え始めています。
彼の常に遠くを見つめているような表情からは、過去を懐かしんでいるというよりも、お墓参りに来た人の静かな心境が伝わってくるようにも感じられます。

音楽に古くからの盟友、ペーア・ラーベン(Peer Raben 1940-2007)を再び起用し懐古的なメロディを散りばめているところも葬送感を濃くしています。

ダニエル・シュミットは「季節のはざまで」の2年後、日本で撮影された「書かれた顔」(1995)を発表しています。
「書かれた顔」は当時体調を崩しがちで意気消沈していたというシュミットに日本側から声をかけて実現した作品といわれています。
ひょっとすると「季節のはざまで」を制作していた当時からすでに監督は自分の遠くない「死」を意識していたのではないでしょうか。
「季節のはざまで」が発表された時点では誰も彼の晩年だとは思っていなかったわけですが、シュミットは2006年、まだ64歳という年齢で亡くなってしまいます。
おそらくそれ以前から病魔と長く付き合っていたのでしょう。

「季節のはざまで」は映画監督ダニエル・シュミットが自ら描いた「生前葬」だったのかもしれません。