円満院祐常&円山応挙「七難七福図巻」|相国寺承天閣美術館

 

若冲と応挙 I期

■2023年9月10日〜11月12日
相国寺承天閣美術館

 

相国寺には、なぜ、まだ国宝に指定されないのか不思議な文化財が2件あります。

 

一つは伊藤若冲による「釈迦三尊像」。

これは単純な話で、本像とセットである「動植綵絵」(皇居三の丸尚蔵館蔵)が先年国宝化されているにも関わらず、ある意味「本体」ともいえるこちらの絵画だけが指定を受けず置き去りにされているという理由によります。

bunka.nii.ac.jp

 

そして、もう一つが円山応挙筆「七難七福図巻」(重要文化財)です。

応挙初期における極めて充実した代表的画業であり、長大な三巻に描かれた図像の数々は近世絵画の中でも特異的な傑作として重要な位置を占めていると思うのですが、国宝指定がなされる気配はありません。

 

本展では、この「未来の国宝(思い込みによる推定)」二件が一度に鑑賞できます。

中でも後者、「七難七福図巻」は滅多に実現されない「全巻一気展示」です。

圧倒されました。

 

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「七難七福図巻」は発注から制作、来歴まで、その背景事情がはっきりと記録されている点でも、とても貴重な作品です。

 

応挙にこの画像を発注した人物は、園城寺円満院門跡、祐常(1723-1773)です。

したがってこの巻物は、当初、当然に天台宗の寺院に収められたのですが、現在は臨済宗大本山相国寺の所有物となっています。

 

というのも「七難七福図巻」は、もともと大阪にあった萬野美術館の旧蔵品であり、2004年、同館のクローズに伴って相国寺に一括して寄贈された「萬野コレクション」を構成していた作品でした。

経済的に窮した円満院から流出した寺宝を萬野裕昭が買い取っていたわけです。

つまり相国寺からみれば他宗に縁のある巻物になるわけですが、全巻はもとより、円満院祐常ゆかりの付随資料もしっかり受け継がれていて、非常に大切に扱われていることが伝わってきます。

 

七難七福図巻「天災巻」大火の図(部分)

 

さて、この発注者、祐常という人物は、摂関家(二条家)出身でありながら、極めてユニークな思想をもっていた宗教家でもありました。

「仁王経」をことさらに重視した祐常は、さまざまな災厄から逃れ無病息災と幸福を説くこの経典の精神をなんとか「可視化」したいと考えたようです。

ここまでは仏教人として別に不思議な発想ではないのですが、この人はその実現方法として、とにかく「リアル」性を最重要視しているのです。

江戸時代も中期を過ぎた頃です。

昔から伝わる地獄絵図や極楽図では、もはや嘘くさく、滑稽にすら感じられはじめていたのかもしれません。

伝統的な仏教絵画の様式が仁王経啓蒙に関して使い物にならないと判断した祐常は、「リアルな七難七福」を描くことができる絵師を探していました。

 

七難七福図巻「天災巻」地震の図(部分)

 

そこにめぐり合わせたアーティストが、写実の天才、円山応挙(1733-1795)だったというわけです。

祐常は「ようやく自分のアイデアを実現してくれる絵師が現れた」という趣旨の言葉を文書の中に明確に残しています。

ここまでの経緯を見ても、近世におけるパトロンと製作者の幸福すぎるような出会いに驚くわけですが、円満院祐常という人はさらに「発注者」として恐るべき才能をもっていました。

なんと応挙に対し、自分自身による「構想図」を示しているのです。

 

七難七福図巻「天災巻」野獣の図(部分)

 

自らも絵を学び相当な画力があったという祐常は、七難七福とすべき図像のモチーフを下絵として描き、極めて具体的に絵師応挙に示していて、本展でもその図が紹介されています。

さらりとした簡略画ですが、この構図が応挙に与えた影響は甚大だったことがわかります。

そこには曖昧な「雰囲気」ベースの指図はありません。

しっかり「仕様」として製作者=絵師に指示されたエヴィデンスが確認できるのです。

つまり円満院祐常は、当時一流のプロジェクトマネージャーとしての顔をもっていたのです。

そして応挙もそのプロデュース力に応えて、三年もの月日を費やし、成果物としての「七難七福図巻」を見事に納品しています。

このとき円山応挙は30歳代中頃。

実力を発揮しながら、10歳ほど年長にあたる祐常の意を最大限尊重しつつ作画にあたったと推定できそうです。

やや強引かもしれませんが、この図巻は、応挙単独というより、「円満院祐常+円山応挙」による合作とするのが本来であるようにも思えます。

 

七難七福図巻「天災巻」怪鳥の図(部分)

 

「天災巻」「人災巻」「福寿巻」、三巻全てが、祐常の指図絵や応挙自身による画稿(下絵)とともに展示されています。

「天災巻」の一部が公開されたときに鑑賞したことがありますが、オール七難七福図を一挙に観るのは初めてです。

それぞれに特徴があり、甲乙つけ難い、三巻とも疑いようのないマスターピースといえるでしょう。

 

七難七福図巻「人災巻」火炙りの図(部分)

 

中でも異様な迫力をもっている図像が「人災」の巻です。

強盗に追い剥ぎ、誘拐やレイプといった強烈な罪悪が容赦なく再現されています。

さらに心中や自刃、鋸引きや磔など、凄惨な人生の最期が記録された図像では、余計な背景などが省略され、一層、リアルさが追求されているようにも見えます。

牛を使役した八つ裂きの刑のように、画稿段階と本画でかなり違った描写がみられる刑罰もあります。

応挙は実見と想像を組み合わせ、迫真性を追求したのでしょう。

完成までの時間を考えると、祐常に仕上がりについて相談しながら筆を進めていったとも推測できそうです。

 

七難七福図巻「天災巻」水難の図(部分)

 

怪鳥や胡乱な野獣、大蛇などの図には、少し絵師の「想像力」が優っていて、恐怖より滑稽さが感じられる面もあります。

しかし、それも現在の視点で見るからそう思えるのであって、描かれた当時は十分、ホラー要素を鑑賞者に植え付けた可能性があります。

 

他方で「福寿巻」は、いたって平穏な、ある公家の宴が緻密な筆使いを駆使しつつ、普通に描かれています。

「天災巻」でのまさに天地がひっくりかえりそうなダイナミズムや「人災巻」の禍々しい描画とは対照的です。

しかし、「福寿巻」で、今さらながらに極楽浄土の幻想風景を描くことは、三巻制作の趣旨からみておかしいわけで、ここでも祐常と応挙は、あえて「リアル」な上層貴族の宴会を描いたとみるべきなのでしょう。

「福寿巻」では近世当時における厨房の様子なども忠実に再現されています。

一種の風俗図巻としてもとても重要な作例と感じます。

 

このように「福寿巻」がリアルに普通であればあるほど、「天災巻」「人災巻」のリアルも引き立ってくるのです。

祐常と応挙の眼は三巻を通して透徹です。

 

七難七福図巻「天災巻」洪水の図(部分)

 

保存状態も極めて良い「七難七福図巻」。

発注者と製作者の緊密な関係性も含め、近世絵巻の傑作としてどうしてまだ国宝化されないのか、あらためて不思議に感じる「全巻展開」展示でした。

 

七難七福図巻「福寿巻」(部分)