井田幸昌展にみる既知と未知の境界|京都市京セラ美術館

 

井田幸昌 展「Panta Rhei|パンタ・レイ − 世界が存在する限り」

■2023年9月30日〜12月3日
京都市京セラ美術館

 

井田幸昌(1990-)にとって初めてとなる美術館での個展なのだそうです。
彼の故郷である鳥取米子市美術館での開催を終え、京都に巡回してきました。
美術館南回廊2階の南側スペースを使い切りつつ、多彩なセノグラフィーによって演出、構成されています。

 

ida-2023.jp

 

巨大な油彩画群「ポートレート」シリーズの14枚にまず圧倒されました。
分厚くダイナミックな筆致によって描かれた図像は、一般的に鑑賞者が絵画ととる距離感で視認すると、何が描いてあるのかよくわからない、抽象作品としてまず姿を現します。
ところが。
この展覧会は全ての作品が写真撮影OKとなっているので、さっそくスマホの画面で作品を捉えてみました。
すると、画面には明らかに「顔」が写り込んでいるのです。
びっくりしました。
作品の全景をとらえるために距離をとったところで、はじめて、ある人物の顔らしい造形が浮かび上がってくる仕掛け。
いわゆる「パレイドリア現象」を逆手にとった手法といえるかもしれません。
支離滅裂にみえていた絵の具の波が人の顔に変化したときに受けるなんともいえない愉悦が感じられました。

 

 

ただ、これらの顔表現はどこかでみたようなスタイルを連想させもします。
会場の解説板にも書かれていたように、極端にデフォルメされ、「破裂」しているようなその顔からは、直ちにフランシス・ベーコンとの類似性を感受します。
また、乱雑なようでいて実は計算されたかのように色彩が幾重にも織り込まれた筆使いは、近年のゲルハルト・リヒターが好んで使う「抽象絵画」の手法に近いといえるかもしれません。

井田の「ポートレート」には、極論すれば、なにも「新しい」技法や手法が用いられているわけではありません。
難解なコンセプト、思想の提示もありません。
むしろ、現代アートの流れの中においたとき、保守的といってもよいくらい「わかりやすい」のです。
ところが、作品から受ける印象は、実に新鮮であり、特に「逆パレイドリア」の効果は、軽く「脳が直接喜ぶ」ような快楽にもつながっています。

 

 

ベーコンやリヒターといった巨匠やその亜種たちが使用してきた「既知」の手法を、独りよがりに変奏して混濁させるのではなく、その既知性をそのまま、十分技術的水準を確保した上で、「未知」の快楽に変換、創造している点がこの人の面白いところと感じました。
新奇性や先鋭性を開き直って捨象したかのような井田の芸術性は一面ではかなり通俗的ともいえますが、そういうことを本人が自覚しているがゆえにどこか爽快な気分が漂ってもきます。

 

 

具象絵画」のコーナーには、こうした井田幸昌の「既知と未知」の境界を遊ぶような芸術性がさらに端的に示されていると思います。
モチーフにはいかにも泰西名画を思わせるような人物事物が確認できますけれど、全体は独特の幻視性で覆われ、過去と現在が微妙に溶融しあっているような光景が描かれています。
懐かしさと不安、わかりやすさと不可解さが同居し、それぞれに「境界」を侵食しあっているような、静かな劇性がどの作品からも伝わってくるようです。

 

 

「End of today」と題された300枚にも及ぶ小品群の部屋にも「既知と未知」の楽しさがあります。
一日の記憶をとどめるために描かれた定型化された絵画。
このスタイルはすぐさま河原温の「Today」を鑑賞者に想起させることになるでしょう。
でも、井田幸昌が描いた「一日」は、河原温の厳格にすぎる「24時間以内」の一日ではありません。

 

 

肖像画めいた絵もあれば、長閑な田舎の風景のような作品もあります。
現在の一日ではなく、紛れもなく過去、あるいは未来を想像したような図像も確認できます。
中には黒一色に塗りつぶされた板のように、画家の心象そのものの闇が表されていると感じさせる一枚もありました。

河原だけでなく、例えばピーター・ドイグやミケル・バルセロといったアーティストたちのスタイルや色彩感覚、独特のポップ感やファンタジー性といった「既知」感もあるのですが、こうして一挙に飾られた「End of today」からは、どっと溢れてくるような「未知」の「全体」が漂ってくるようにも感じられます。
一枚一枚の個別の面白さと、それが連なったときに生じる楽しさと不安。
何度もぐるぐると「300枚の部屋」を眺めまわしてしまいました。

 

井田幸昌「Last Supper」

 

展覧会、最後の部屋には「最後の晩餐 Last Supper」の大作が一枚だけ静かに置かれています。
画家によるコメント(下記)が掲示されています。

「実はこの絵には人がいないのです。現在、女性の社会的地位はますます高まりました。人工知能が発達し、人間に代わってロボットが新たな時代を築こうとしています。そんな時代に最後の晩餐を描いたので、現代の人間に対するアイロニーとして表現したいと思いました。ー 井田幸昌」

頭の硬いフェミニストあたりに怒られそうなメッセージを平気で書いてしまうところにこの人の無邪気さを感じますが、創造されている絵画はいたって真面目なものです。
井田幸昌の中にあるとみられる素朴さとケレン味がじんわりと滲んでくるような作品でした。

 

 

例の前澤元社長による「宇宙ステーションに最初に飾られたモダンアート」の一件に代表されるように、井田幸昌はとても派手な話題に事欠かないアーティストです。
本人自身がそうした状況を楽しんでいるような雰囲気も感じるのですが、中にはこうした俗っぽい話題によって、離れていってしまう鑑賞者もいるかもしれません。
私も実はそうした先入見を持ち始めていたことを白状しておかなくてはなりません。

ただ、今回の個展で初めて大量にこの人の作品に接して感じたことは、何より井田幸昌という人は、「技術の人」ではないか、ということです。
どの作品からも彼の造形を掴む確固とした視線と、驚異的なデッサン力、色彩感覚の鋭さが伝わってきました。
また、例えば、木彫作品の数々からは、どうみても彼が表層的なパリピ系の世界に馴染みきることはできないだろうと思われるくらい、繊細に内省を繰り返す気質が窺えるようにも思えます。

井田幸昌の「既知」と「未知」の境界を楽しませてくれるアートが実感できた素晴らしい展覧会でした。