若冲と応挙 II期
■2023年11月19日〜2024年1月28日
■相国寺承天閣美術館
伊藤若冲と円山応挙、近世京都画壇の巨人二人を特集する企画展の第2期です。
第一展示室はI期でも紹介されていた、若冲の「釈迦三尊像」とコロタイプ複製による「動植綵絵」がそのまま継続展示されています。
大きく内容が変わるのは第二展示室です。
I期は応挙の「七難七福図巻」全巻展示がメインでしたが、II期では若冲の「鹿苑寺大書院障壁画五十面」一挙公開に主役が代わりました。
ただ、応挙も負けてはおらず、「七難七福図巻」と並ぶ傑作、「牡丹孔雀図」と「大瀑布図」が展示室の南北壁に堂々と対面するように鎮座し、若冲の水墨を迎え撃っています。
重要文化財「牡丹孔雀図」と「大瀑布図」。
共に「七難七福図巻」と同様、旧萬野美術館から2004年に相国寺へ寄贈された作品にあたります。
そのルーツも実は同じで、三作品はいずれも、近江国、円満院の門主だった祐常(1723-1773)の求めに応じて制作され、同寺院に伝来した絵画です。
戦後、経営に窮した円満院が手放し、萬野裕昭が買い取った寺宝群に含まれていました。
近世の相国寺は若冲と縁が深くはあったものの、応挙とはそれほど親密な関係にあったわけではないようです。
相国寺の開山堂には応挙と息子の応瑞による襖絵が残されていますが、これらはもともと桃園天皇の皇后恭禮門院の女院御所に設置されていたもので、その建物が相国寺に下賜された際に付随してきた作品ですから、相国寺が直接応挙父子に発注したわけではありません。
21世紀に入り、旧萬野コレクションを引き継いだ結果、偶然にもほぼ同時代に活躍した巨星二人の傑作群がこの寺に併存することになったわけです。
作風も生き方も全く対照的だった二人ですから、なんとも皮肉なめぐりあせわせといえるかもしれませんが、承天閣美術館内における本展での解説文には、当然、こういう作品の来歴についての記述はありません。
それはともかく、こうして素晴らしく静かな鑑賞環境で若冲と応挙を贅沢に堪能できるわけですから、相国寺には感謝しかありません。
「牡丹孔雀図」は1771(明和8)年に描かれた絹本着色、縦131.8X横190.3センチの大作です。
応挙の絶頂期と言われる40歳代に入る直前、39歳の筆による作品。
驚異的に緻密な写生の術とその色彩美に圧倒される一幅です。
応挙は実際、この孔雀を「見て」描いたと推定されています。
江戸時代中期、四条河原周辺にはたくさんの見世物小屋があり、南方から連れてこられた孔雀もここで見物することができたのだそうです。
「七難七福図巻」の実績ですでに応挙の実力を十分認めていた裕常にしても、これほどまでにリアルさと気品を兼備した珍鳥の姿には驚いたのではないでしょうか。
何度見ても見飽きることがない傑作です。
ところで、二条家出身の貴顕である円満院祐常と、当時、市中の道具商尾張屋で働いていたに過ぎない若き応挙はどのようなきっかけで出会うことになったのでしょうか。
摂関家出身者と、実績がまだほとんどなかった青年絵師ですから、普通に暮らしていればまず交わることが許されない身分差が、両者の間には存在しています。
この二人をめぐり合わせるきっかけとなった人物が推定されています。
今でも人形供養の寺として有名な宝鏡寺にいた尼僧、蓮池院尼公です。
尾張屋で人形の制作もしていた応挙は、宝鏡寺に品物を納めるなか、尼門跡付きだったこの元御所女房に認められるようになったと考えられています。
蓮池院尼公はかつて桜町天皇(1720-1750)の皇后青綺門院(二条舎子 1716-1790)に仕えていた人物です。
その青綺門院の実弟が、他ならない、円満院祐常だったのです。
腕の良い人形師として認めていた応挙を、絵も嗜んでいたという祐常に蓮池院尼公が引き合わせたとしても不思議ではない、ということなのでしょう。
さて、この祐常門主という人物は、以前「七難七福図巻」に関して書いた雑文でもふれましたけれど、随分とエキセントリックに「写実」を追い求めた人でもありました。
その異様ともいえる趣向に応えて応挙が制作したもう一つの作品が、「大瀑布図」です。
非常に巨大な水墨の一幅。
1772(安永元)年の制作です。
高さが3メートル62センチもあります。
美術館展示ケースの上部ギリギリのところからなんとか全体を吊り下げられるという大きさ。
ドッと流れ落ちる水流の迫力にも圧倒されます。
この掛軸は、裕常がもっていたあるとても明確なニーズに基づいて制作されたことで知られています。
円満院には滝がなかったのだそうです。
祐常はそれが気に入らず、写実の天才応挙に「実物の滝」の再現を依頼したと考えられているのです。
本作はそんな祐常の異様な情熱を裏付ける「仕掛け」があることでも有名です。
円満院の池に面した書院にはこの滝図を吊るためと見られる金具がいまでも残されているのだそうです。
ところがその金具に実際、滝の図をかけてみると高さが足りません。
掛軸の下部は床に折れ曲がるように置くしかないのです。
結果として、滝は床面を通過し、まるで池に流れ落ちるような配置でL字型に吊るされることになります。
つまり初めからこの3メートル半を超える「高さ」は、円満院書院の高さよりも高く描くために設定されたサイズだったわけです。
本画の描写力だけでなく、作品を「展示」したときの効果も狙うという祐常&応挙の徹底したリアル追求精神に驚きます。
逆に、現在承天閣美術館で見ることができる「大瀑布図」は、円満院においては足りなかった、全幅を真っ直ぐ展示する「高さ」が確保されていることになります。
これを祐常がみたらどう感じるのか、感想を聞いてみたいものです。
孔雀も滝も応挙はこの他に複数描いていますけれど、やはり今回展示されているバージョンに一番惹かれます。
冬休みに入っていますから普段の平日よりもお客さんが多く感じられた承天閣美術館ですが、といっても混雑というレベルには遠く、快適に鑑賞することができました。
二作品以外にも近年おそらく背景の銀地に修復が施されたとみられる「朝顔図」や、まるでフリードリヒを思わせるような孤高の岩山表現が素晴らしい「雪中山水図屏風」など、応挙のマスターピースが揃えられていました。