ドマの配給で、フィンランドの建築家アルヴァ・アアルト( Alvar Aalto 1898-1976 )に関するドキュメンタリー映画、「アアルト」(AALTO 2020)が各地のミニシアターを中心に公開されています。
この映画のチラシは、たしか今年の春くらいから映画館においてありましたから、かなり前広に広宣期間が設けられていた作品。
そうした効果もあったのでしょうか、地味そうな教養系フィルム(文科省選定のお墨付き)にも関わらず、公開後の週末にはたくさんのお客さんが入ったようです。
非常に洗練された構成と映像美で紡がれた作品です。
俳優らしい人物は登場しません。
アアルトとその妻アイノが交わした手紙が読み上げられるシーン等ではおそらくプロの俳優、ナレーターが採用されています。
でも、特に芝居がかった味付けが強くなされることもなく、淡々とテキストが読み上げられていくだけです。
映像と語りによってある程度の演出は施されていますが、幸いなことに、再現ドラマ的な野暮ったいシーンをもたない映画です。
多数の建築家や評論家、アアルト所縁の人物が映画の中で語っていますが、彼ら彼女らが自らの顔を晒すことはほとんどありません。
おそらくそれほど映像自体としては価値がない関係者のインタビューなど、余計に「ノイジーなもの」がちゃんと排除されている映画です。
結果として、こういう人物評伝系ドキュメンタリー映画にありがちな、「証言者」の存在を主張し過ぎるあまりに映像自体が散らかってしまう愚が巧妙に回避されていて、アアルトの作品同様、スタイリッシュな美観が、終始、見事に継続します。
学術的な説明などもふんだんに加えられているのに、いわゆる教養映画臭さがほとんど感じられません。
数多くの写真やアアルト夫妻をとらえた当時の映像などをなめらかに組み込みつつ、建築作品そのものの美しさを尊重した監督、ヴィルピ・スータリ(Virpi Suutari 1967-)の手腕は練達の域に達しつつあるようです。
ところで、この建築家、Alvar Aaltoの名前、その発音は本来どうとらえたらよいのでしょうか。
この映画ではフィンランド人の建築評論家やナレーター、つまり、フィンランド語ネイティヴの人たちによる"Alvar"あるいは"Aalto"の発音が確認できます。
耳に自信はありませんが、聞こえた印象をあえてカナ表記すると、「アルヴァル・アルト」となりました。
"Alvar"の"r"が無声音としてしっかり確認できます。
一方、"Aalto"については、少なくとも「アアルト」には聞こえません。
あくまでも、ちょっとカッコよく表記したいなら「アァルト」でしょうか。
普通に「アールト」で良いようにも感じますが、建築界隈や映画の邦題自体が「アアルト」を採用していますから、ややこしくならないよう、このままアアルトでいこうと思います。
よく知られているように、アアルトが設計した建築は、日本には一つもありません。
本人が来日したこともありません。
にも関わらず、近代建築家の中でアアルトのこの国における人気はかなり高いものがあります。
日本に作品が残るライトやル・コルビュジエは別格として、長く滞在したことすらあるブルーノ・タウトよりもおそらく一般的な人気はアアルトの方が高いかもしれません。
ミニシアター系の上映とはいえ、2020年に制作されたこの映画が「アアルト生誕125年記念」とやや強引に銘打たれつつ今年わざわざ公開され、それなりに観客が入るという現象自体がこのことを裏打ちしています。
アアルト関連資料を多数保有するドイツのヴィトラ・デザイン・ミュージアムが企画した大規模なレトロスペクティヴ「アルヴァ・アアルト もう一つの自然」展が、2019年、欧州以外で初めて巡回した場所も日本です。
このやや異様ともいえる日本のアアルト人気を支える要因の一つが、アアルト夫妻デザインによる数々のインテリア製品にあることは明らかでしょう。
現在はイッタラが主に扱っている花瓶「アールトベース」や、お馴染みの「スツール」は、有名家具店やデパートで容易に目にすることができます。
特に、いつまでも驚くほど古臭くならない「アールトベース」は手軽に自室をおしゃれ空間に変身させてくれるアイテムとして不動の人気商品です。
しかし。
この映画では、その「アールトベース」が、実はアアルトが、あるアーティストの作品に大きく影響を受けて作られた可能性が強く示唆されています。
ジャン・アルプ(ハンス・アルプ)の曲線を多用したデザインです。
いわれてみると、確かに良く似ています。
この他、アアルトが、特に初期、バウハウスやその立役者であったワルター・グロピウスのモダニズム要素を強く意識していたことが建築史家の指摘によって明らかにされます。
アアルトはバウハウスからの直接的な影響を否定していたようなのですが、建築史家は「それはウソだ」ときっぱり言い切っています。
つまり、映画「アアルト」は、決して「アルヴァ・アアルト礼賛」一辺倒の内容とはなっていないのです。
ヴィルピ・スータリは慎重に多様な証言を集め分析しながら、アアルトの正体に冷徹に踏み込んでいく眼を持ち合わせています。
さらにこの女性監督はアアルトの二人の伴侶であるアイノとエリッサの存在や役割に焦点をあてることで、スマートなモダニストとみなされがちなこの建築家の人間臭い部分をも丹念に炙り出していきます。
フィンランドの自然美を自身の建築語法に活かしたとされるアアルトに対して、もし、「寡黙な孤高のアーキテクト」というイメージをもっていたならば、この映画によってそれが間違っていたことが判明してしまうと思います。
彼はその性格に「複雑」さは持ち合わせているものの、十分過ぎるほど社交的に立ち振る舞うことができた辣腕建築家であり、ロックフェラーなどの大資本家、大企業の仕事を喜んで引き受けていました。
そうしたアアルトの俗っぽい面を、自国フィンランドの人々が、実は、世界で一番冷たい視線で見つめていたこともこの映画は隠すことなく提示しています。
ヘルシンキ中心部に聳える白亜の殿堂「フィンランディア・ホール」(Finlandia Hall 1962-71)を「肉屋のように冷たい建物」と皮肉る市民の声をとらえた映像が特に印象に残りました。
ただ、この「アアルト」、少し不満な面が残る映画でもあります。
一定の冷徹さを失わない中にも、監督ヴィルピ・スータリは、二人の妻へのシンパシーを強調しすぎているのではないか、そんな部分があるようにも思えるのです。
そこが「建築家アアルト」の技芸そのものに関する分析の面白さからこの映画を、幾分、遠ざけてしまっているので、たとえば、建築や建築史に関係、あるいは関心のある鑑賞者には、物足りない内容になってしまっているかもしれません。
それと、ほとんどマイケル・ナイマンをそのまま引用したのではないかと思われる Sanna Salmenkallio(1966-)によるマイルド系のミニマル音楽も、2020年代の今となってはちょっと時代錯誤感を覚えます。
とはいうものの、アアルト建築の美しさは十分すぎるほど映像にとらえられています。
たとえば、彼の初期代表作、「パイミオのサナトリウム」(Tuberculosis Sanatorium,Paimio 1928-33)は、白い雪景色の中に、さらに真っ白なモダニスム美をくっきり顕現させていて、スータリが、建築が最も美しく映える時季を的確にとらえて映像化していることが伝わってきました。
たっぷりとアアルトの作品に向き合える映画です。
さて、昨年から来年にかけ、息長く「イッタラ展」が各地を巡回しています(現在は新潟万代島美術館で開催中・12月10日まで)。
この展覧会のアートワークにも「アールトベース」が使われています。
映画「アアルト」を観たあとにこの花瓶をみると、少し印象が変わる、かもしれません。