万寿寺と三聖寺の残影|京都国立博物館「東福寺展」

 

特別展「東福寺

■2023年10月7日〜12月3日
京都国立博物館

 

東京国立博物館での展示を終えてから、やや長めのインターバルを置き、まるで「紅葉の通天橋」とタイミングを合わせるかのように、「東福寺」展が京博に巡回してきました。

本当に紅葉客で混雑すると困ったことになりますから、とりあえずシーズン前の前期展示(10月7日〜11月5日)を鑑賞することとした次第です。

ただ、今年の京都は異常な猛暑残暑のためか、葉の色づきに異変が起きているようなので、京博と東福寺の思惑通り、展示ともみじの競演が美しく実現するか、やや心配な秋を迎えています。 

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さて、実は京博には、この特別展が開催される随分と前から、上野でも展示されていた巨大な「二天王立像」が、東博展終了後、直ちに持ち込まれ、「先行展示」されていました。

なにしろ3メートルを超える大きい彫像なので、一度、東福寺の収蔵庫から出したものを再度出し入れすることが大変と考えられたのでしょう。

おかげで、コレクション展期間中の閑散としていた京博館内でたっぷり二像を鑑賞することができたのでした。

 

鎌倉時代に制作された大傑作であるこの「二天王立像」(重文)は、もともと東福寺本体にあった仏像ではありません。

由緒をたどると、東福寺の北側にかつて存在していた「三聖寺」の山門に置かれていたものと推定されています。

江戸時代に三聖寺から東福寺に移され、長らくなんとこの寺の三門(国宝)内に置かれていたのですが、現在は収蔵庫に格納されています。

他方、三聖寺は、明治の廃仏毀釈で廃寺扱いとされてしまい、現在は消滅しています。

でも、その痕跡が全く無くなってしまったわけではありません。

かつて三聖寺があった場所の近くには、現在、「万寿寺」があり、その門前にある「鐘楼」は元来、三聖寺に属していた建物です。

 

万寿寺前の鐘楼

 

この万寿寺と三聖寺、非常に複雑な歴史的経緯をたどりながら絡みあっている寺院なのです。

今回の「東福寺」展には、両寺院所縁の文物も随所に登場しているので、以下にちょっと整理を試みてみましたが、やはり、とてもややこしいです。

 

まず万寿寺です。

周知の通り、室町時代には、天龍寺相国寺建仁寺東福寺とともに「京都五山」に名を連ねていた有力寺院でした。

来歴をみると、その起源は院政期にまで遡ります。

開基は白河上皇とされ、彼が若くして亡くなった皇女の菩提を弔うために建立した寺院(六条御堂)がそのはじまりとされています。

禅宗寺院として「五山」に列せられていた最盛期には、現在でいうと下京区五条通を南北に挟みつつ、高倉通東洞院通の間あたりに伽藍を構えていたと推定されています。

この近辺には現在も「万寿寺中之町」「万寿寺町」といった地名が残っていて、寺の北辺を東西に横切っていたのであろう小路(平安京の「樋口小路」に相当)は、今も「万寿寺通」と呼ばれているくらいですから、相応の規模をもっていたことが想像できます。

ところが、足利義教が将軍だった頃の1434(永享6)年、市中の火災に巻き込まれ炎上。

以降、再建はされたものの、なぜか寺運を盛り返すことができないまま、天正年間(1573-1592)、豊臣秀吉の京都大改造によって、下京の地から追い出され、現在地付近、つまり東福寺の北側に引っ越すことになりました。

 

この東福寺北側エリアにもともと存在していた寺院が三聖寺でした。

移転を余儀なくされた万寿寺は、三聖寺の隣に寺地を設けています。

実質的には三聖寺が、衰微していた万寿寺をお隣さんとして引き取ったような格好にみえます。

どうしてこんな成り行きになったのかというと、万寿寺も三聖寺も、ある共通の僧によって実質的に開かれた禅宗寺院だったからです。

 

その人物とは東山湛照(とうざん たんしょう 1231-1291)です。

東福寺開祖である円爾(1202-1280)の後を受け、東福寺第二世になった重要な禅僧です。

もともとは天台浄土教を学んでいた人ですが、円爾に師事した後、禅宗に転じました。

万寿寺の前身だった白河上皇開基の六条御堂も天台宗でしたが、運営に携わっていた東山湛照の行為にリンクして臨済宗に改められ、「万寿寺」として再スタートしています。

 

一方、三聖寺も天台寺院としてはじまりながら、こちらも東山湛照によって禅宗寺院として生まれ変わり、彼によって運営された寺院でした。

東福寺に属する末寺ながら、その北側一帯に大規模な伽藍を有していたことが、本展でも出品されている「三聖寺古図」によって確認することができます。

1354(文和3)年には「諸山」に列せられるなど、寺勢を維持向上させていったようです。

 

秀吉による大胆な都市計画によって居場所を失ってしまった万寿寺が、実質的な開祖を同じくする三聖寺近辺に移転したのも自然な成り行きだったようです。

 

なお、三聖寺の遺構は万寿寺前に残る「鐘楼」だけではありません。

東福寺月下門のすぐ内側に「愛染堂」があります。

小型の建築物ですが、朱塗りが鮮やかな八角円堂で、独特の魅力があります。

この建物も、元来、三聖寺が寺域としていた場所にあったものです。

室戸台風で大破した後、修理を兼ねて現在の東福寺境内に移築されました。

往時の三聖寺が誇っていた華麗な伽藍を想像することができるレガシーの一つです。

 

東福寺「愛染堂」

 

こうして、衰微した万寿寺を隣地に抱えこみながら、明治近代を三聖寺は迎えるわけですが、ここで大きな「逆転」現象が起きてしまいます。

廃仏毀釈の中で、塔頭寺院の整理を進めざるをえなくなった東福寺は、隣あっていたこの二寺を統合します。

そこで残されたのは「万寿寺」の方でした。

「三聖寺」はこの時、廃されてしまったのです。

万寿寺の窮地を救ったはずの三聖寺が、逆にその万寿寺側に吸収され、消滅してしまったわけです。

三聖寺にしてみれば、文字通り「庇を貸して母屋をとられた」格好です。

どういう事情でこういう措置がなされたのかはよくわかりませんけれども、万寿寺がもっていた「京都五山」ブランドがここで強みになったのかもしれません。

本展で出品されている作品の中には「万寿寺蔵」と表記されている文化財がいくつか見られますが、その大半がもともとは「三聖寺」が受け継いできた文物なのです。

 

ただ、結果的には名前を残した万寿寺も、明治以降、順風満帆というわけにはいかなかったようです。

門前を走ることになった九条通の市電敷設のため、隣接していた東福寺の寺域から境内が大きく分断されてしまいます。

今でも万寿寺は道幅の広い九条通を挟んでいるため、東福寺塔頭群からやや孤立している印象を受けます。

本展でその勇壮な姿を堪能できる「金剛力士立像」が置かれていた「仁王門」も万寿寺境内から引き離されてしまうなど、京都近代化に伴い、散々な目にあった寺院ともいえそうです。

現在は、東福寺の数ある塔頭寺院の一つとして命脈を保っている存在であり、万寿寺に、もはや「五山」を連想させる規模や雰囲気は、残念ながら、あまり感じられません(非公開寺院ですから外から眺めただけですけれども)。

 

しかし、三聖寺、そして万寿寺へと引き継がれた寺宝の数々は、本展でも独特の価値をもって存在感を放っているともいえます。

巨大な「二天王立像」がその代表格ですけれど、本展図録、そのカタログNo.1を飾っている東福寺開祖円爾の等身大に近い貴重な肖像画は、東福寺本体ではなく万寿寺から出展されている一幅です(後期からの展示)。

円爾生前の姿が、後の理想化をあまり受けることなく、リアルにとらえられた画像と推定される大変な傑作です。

これは、三聖寺&万寿寺の実質的な開祖である東山湛照が、師円爾の最晩年に、有力な弟子として近くにいたからこそ、彼がその継承者として受領できた絵画であり、結果として万寿寺に伝えられているものなのです。

 

今は消滅してしまった三聖寺、そして往時からその姿を大きく変えてしまった万寿寺

東福寺」展では、かつての両寺院がもっていた美しい残影を随所に感じることができました。

 

三聖寺古図(東福寺蔵)