長沢芦雪の幽霊|大阪中之島美術館

 



特別展 生誕270年 長沢芦雪 ー奇想の旅、天才絵師の全貌ー

■2023年10月7日〜12月3日
■大阪中之島美術館

 

会期は2ヶ月近くあるものの、11月7日を境に展示品の9割近くが入れ替わるという特別展です。

実質、1ヶ月+1ヶ月の長沢芦雪大レトロスペクティブ、パート1&パート2企画といったところでしょうか。

こうした措置は近年よくみられることではあるのですが、美術館が特定作品の展示期間をわざわざ前後期等で区切って制限している表向きの理由は「作品保護」だったはずです。

自慢げに「9割が入れ替わり!」とか宣伝されてしまうと、なんかちょっと違和感を覚えたりはします。

とはいえ、現実として、たくさん芦雪作品を観ることができるわけですから、見逃すこともできません。

結局、2回、渡辺橋に通うことになりました。

nakka-art.jp

 

長沢芦雪(長澤蘆雪 1754-1799)は京都を拠点として活躍した絵師ですが、亡くなった場所は大坂です。

その縁もあって本展は中之島美術館で開催されているのでしょう。

ただ、よく知られているように、大坂における彼の客死については、毒殺だの自死だのと謎めいた風聞が複数伝承されていますから、芦雪にとって大阪は必ずしも縁起の良い街ではありません。

とはいえ、その死に関するエピソード群はいずれも信憑性が乏しい「悪口」の一種ととらえられていて、本展でも彼の死因については、事実が確認できない以上、何も語られてはいません。

 

芦雪は、若冲蕭白とともに今や完全に「江戸奇想絵師」の三巨頭とされていて、実際、その唐突な死を含め奇譚の類にも事欠かない絵師です。

しかし一方でこの人は、天明の大火によって焼失した京都御所障壁画の再制作プロジェクトにきちんと参加していることからもわかるように、無頼のアウトサイダーとして生きていた人物ともいえないわけです。

円山応挙(1733-1795)の一門として、師の没後も門人たちと活動を共にしている事実を考えると、応挙による「三度の破門」説も当然に今では疑問視されています。

 

つまり芦雪は単なる変人絵師ではなく、社会的に十分認知されていた人物なのです。

もし他殺や自殺ということになれば、一応、捜査されたり客観的な記録が残るはずですから、やはり普通に急病で倒れたのではないかと考えるのが自然なのでしょう。

もっとも、これだけ奇怪なエピソードが死後に盛られるということは、それなりにエキセントリックな性格をもっていた絵師だったということも想像に難くありません。

 

ところで芦雪は「酔李白図」を複数描いていて、本展でも2点、確認することができます。

酔っぱらって気持ちよく寝落ちしてしまっている大詩人のことが好きだったのかもしれません。

実際、芦雪自身、相当の酒好きだったようですから、酩酊した李白にシンパシーを感じていたとしても不思議ではありません。

アル中の果てに動脈硬化などそちら系の病魔に冒されていたとすれば、突然死も不思議ではありませんが、これも結局、憶測ではあります。

 

さて、芦雪はたくさん幽霊の絵を描いた絵師でもあります。

「足のない幽霊」のイメージを広汎に流布させた張本人は、師匠応挙に他なりません。

芦雪も応挙一門として実にさまざまなバリエーションでこのモチーフを描いています。

 

私が今まで観たことがある芦雪幽霊は以下の通りです(順不同)。

「幽霊図」(プライスコレクション)
「幽魂の図」(奈良県立美術館蔵)
「幽霊・髑髏・仔犬白蔵主図」(藤田美術館蔵)

今回の芦雪展では、ある素封家のコレクションという「幽霊図」が展示されていました。

これは初めて観る幽霊です。

同じ個人が所蔵しているという円山応挙の「幽霊図」と並列して展示されていて、典型的な美人の様子を崩していない応挙に対し、眉間にやや皺を寄せて描かれた芦雪幽霊にはある種の官能性があり、この絵師独特のクセがよく現れていると感じます。

岡田秀之福田美術館学芸課長の図録解説(p.244)によれば、比較的初期に描かれた幽霊であろうということでした。

 

長沢芦雪が、伊藤若冲や曽我蕭白と決定的に違うところは、何よりも「円山応挙の弟子」だったという点ではないかと思います。

応挙の端正な写実美から「はみ出し」、師匠に挑戦し続けた絵師と芦雪は形容されることが多いわけですが、逆にいうと、芦雪が「はみ出す」その基点には応挙が必ず存在しているということにもなります。

「幽霊」のモチーフにはそうした応挙と芦雪の複雑な師弟関係が典型的に現れているように感じます。

 

今回初めて観た個人蔵の「幽霊図」は、応挙の幽霊ととてもよく似た構図で描かれています。

髪の乱れ方や先述した眉間の表現などに独特の芦雪センスがみられはしますが、その「はみ出し」方は、極めて穏便なレベルとみえます。

ただ、芦雪画では、足に加えて、幽霊図の「枠」自体も下半分が消失しています。

「描表装」の手法を用い、師匠以上に幽霊のもつ神出鬼没感を演出しているわけで、やはり応挙に対して、「一手間」かけて差異を出したいという芦雪の心境がうかがえるともいえそうです。

 

たまたまなのか、同期をとったのかはわかりませんが、現在、京橋の藤田美術館でも「妖」の特集企画として、芦雪の「幽霊・髑髏・仔犬白蔵主図」が展示されています(2023年11月1日〜2024年1月31日)。

こちらは写真を撮ることができました(中之島の芦雪展は写真撮影全面禁止です)。

「描表装」の採用も含め、おおまかなイメージとして、今回中之島に現れた個人蔵幽霊とよく似ていると思います。

fujita-museum.or.jp

 

長沢芦雪「幽霊図」(部分・藤田美術館蔵・本展には出展されていません)

 

ところが、プライスコレクションにある「幽霊図」になると、その「はみ出し」方に異変が起きてきます。

大枠としてのスタイルは変わらないのですが、目が異様に釣り上がり、髪の乱れもさらにおどろおどろしくなるなど、明らかにもはや応挙的な美人の幽霊ではなくなっているのです。

髪をかきあげ、流し目でこちらに視線をおくる幽霊には魔性の気配が濃厚に感じられます。

 

長沢芦雪「幽霊図」(部分・プライスコレクション)

 

さらに奈良県美の「幽魂の図」(本展では前期に展示)になると、幽霊のホラー感は最高潮に達します。

やや上目遣いに薄く瞼を開くその形相は、この世ならざる存在そのものであり、何よりも応挙画や藤田美術館本の幽霊にはない、怨念の気配を感じさせる表現が特徴的です。

こういう人(厳密には「人」ではないのですが)には絶対関わり合いたくないと思わせる、典型的なメンヘラ系キャラが描かれた絵画で、観ていて気分がどんどんと、どんよりしてきます。

奈良県美の幽霊は、原型が応挙幽霊に遡れるにしても、もはや「応挙からのはみ出し」の域を超え、芦雪独自の幽霊として出現しています。

 

右上に賛が書かれています。

幽霊に「冥土のことを尋ねてみたが、睨んだまま黙って答えなかった」という意味の漢詩

賛を書いた人物は安芸国の僧、幻華です。

1794(寛政6)年、芦雪が広島に滞在した頃に描かれたのではないかと推定されています。

この5年後、芦雪は46歳で急逝しています。

 

長沢芦雪「幽魂の図」(部分・奈良県立美術館で撮影)

 

以上、「応挙の弟子」としての芦雪を感じる好例として幽霊を少しまとめてみたわけですが、本展の見どころは当然に幽霊だけではありません。

今回は和歌山高山寺から出展(前期)された「朝顔に蛙図襖」に最も惹かれました。

驚くほど早い筆の運びにも関わらず、洗練されたデザイン性と機知が見事に表現された傑作です。

 

円山応挙はなぜ長沢芦雪を、自分の名代として紀州に派遣したのでしょうか。

色々理由はあるのでしょうけれど、一つ確実に言えることは「芦雪は仕事が早い」ということでしょう。

高山寺での逗留は数日だったとみられます。

その限られた時間の中で、パパッとこれだけの芸術を仕上げてしまう。

芦雪は仕事が早いだけでなく、「仕事が出来た」絵師でもありました。