「VORTEX ヴォルテックス」が描く分化された世界

 

ギャスパー・ノエ(Gaspar Noé 1963-)の監督・脚本・編集による「VORTEX」(2021)が、12月8日から新宿シネマカリテ他、各地のミニシアターで公開されています(配給はシンカ)。

 

ちょっと苦手な「老夫婦もの」映画なのですが、不穏に美しいアートワークと主役二人の意外なキャスティングに惹かれ鑑賞してしまいました。

synca.jp

 

ダリオ・アルジェント( Dario Argento 1940-)演ずる映画評論家とフランソワーズ・ルブラン(Françoise Lebrun 1944-)による元精神科医の妻。

老いた夫婦の最期を描いた作品です。

息子(アレックス・ルッツ Alex Lutz 1978-)や孫も重要なファクターとして登場しますが、実質、夫妻二人がほぼ出ずっぱりの148分間。

丁寧すぎるほどに、その崩壊の過程が描かれていきます。

 

不思議な因縁を感じる映画でした。

今年はアルジェント監督の「オペラ座 /血の喝采」が「ホラー秘宝まつり2023」でリバイバル上映され、ルブランのデビュー作にして代表作、ジャン・ユスターシュの「ママと娼婦」も各地のミニシアターで4Kレストア版が再映されています。

2作とも鑑賞し、特に「ママと娼婦」は旧作であるものの、今年ベスト級の感銘を受けました。

その二人が年の瀬になって「現在」の姿を隠すことなく晒す「VORTEX」。

観ないわけにはいきません。

horror-hiho.com

 jeaneustachefilmfes.jp

 

 

非常に特異なスタイルが用いられている映画です。

同じサイズの二つの画面が並列され、別視点から捉えられた登場人物たちの姿がそれぞれに映されていきます。

この手法自体は前作「ルスク・エテルナ 永遠の光」(Lux Æterna 2019)で既に使われているものの、「VORTEX」におけるその機能と目的はかなり異なっているのではないかと感じました。

 

フラフラと外出してしまう妻とそれに気がついて慌てて追いかける夫。

もはや不思議でもなんでもなくなってしまった、認知症の人とその家族の一般的な光景が淡々と進行していくのですが、観客は二人の行動を「同時」に見せられるので、奇妙にスリリングな感覚を味わうことになります。

ほとんどBGMが使われない静かな情景が続いているだけなのに、左右の画面で違った情報が伝達されますから一瞬も眼が離せません。

観ていてストレスを感じそうになる頃に、二人の行動がほぼ同時に二つの画面で接続され、ホッと一息つかされたりと、スタティックな映像なのに脳内処理としてはかなり忙しい仕事を負わされる映画です。

 

一見、夫と妻、二人の「視線」が別々に映像化されているように感じます。

しかし、次第に、二つの画面に現れている光景は、彼および彼女の「視線」ではなく、二人を包む「世界」そのものであることに気がつきます。

二つの画面は、ほぼ常に夫と妻の姿をその背景を含めて映し出しています。

つまりこの映画は、感情を伴った生ぬるい主観ではなく、客観的に厳然として存在する「分化された世界」を描写していることになります。

二人を取り巻く「世界」そのものが、絶対に交わることなく二つに分化してしまったことが、これ以上ないほど容赦無く提示されているのです。

 

映画の冒頭、画面は一つです。

妻の「世界」が認知症の発症によって夫の世界と分化した途端、画面は二つに分かれます。

いかにもこの監督らしいトリッキーなスタイルで、はじめのうちは技法そのものに自己陶酔しているのではないかと鼻につくほどだったのですが、映画が進むにつれ、ジャスパー・ノエが単なる思いつきのレベルを超えて、この二画面分割のテクニックを採用していることに慄然としました。

認知症の人と「折り合いをつける」ということがいかに難しいことなのか。

「世界」そのものが分化し、別々になってしまっているわけですから、根本的に「折り合い」などつけようがありません。

 

最初に監督からテキストで伝えられるメッセージがあります。

「心臓が壊れる前に脳が壊れてしまった人へ」。

本当に脳が壊れてしまった人がこの映画を観たらどう感じるのでしょう。

恐ろしい言葉です。

 

「老い」というものは、本格的にまだ味わったことはありませんけれども、おそらく「随意」になる身体の部分が次第に滅していくことなのだと考えています。

アルジェントもルブランも、「たっぷりと年老いている」人です。

枯れて痩せている老人ではありません。

二人とも十分に脂肪を蓄えています。

しかし、その膨満した腹や硬直した皮膚は、もはや持ち主の随意から遠く離れてしまった部分にみえます。

むしろ彼や彼女の五臓六腑は「意のままにならない」パーツに変化しようとしているようです。

ルブランの顔に現れた「随意から離れた」表情筋の皺には、演技では到底表すことができない凄みを感じます。

シャワーを浴びるアルジェントの裸体からは、膨張した腹部とそれとは対照的な細い腕によって、年老いた男性の文字通り赤裸々な醜さが、じっとりとした説得力をもって立ち現れてきます。

主役二人から示される重厚で複雑な存在感は「演技」を超越した「経験」そのものから染み出しているものなのかもしれません。

たしかに強烈なキャスティングです。

 

撮影は2021年ですから、当然にコロナ禍の影響を受けています。

場所がほぼ二人が暮らすパリ市内のアパルトマンの内部とその周辺に限定され、登場人物も極めて絞られているのはそのためでしょう。

しかし、そうした制約が、この映画が描く「分化された世界」そのものを明確化する効果につながっているともいえそうです。

夫が蓄積してきた夥しい映画芸術関連の書籍や資料が室内を埋め尽くしています。

他方、妻の持ち物は息子との写真くらいしか部屋の中に見受けられませんが、実は棚の中に異様なほど薬剤を溜め込んでいます。

息苦しくなるほどモノに囲まれた室内なのに、二人の空間は既に「世界ごと」別々に形成されていることが伝わってきます。

 

死を扱った作品ではありますが、ほとんど宗教的な要素を強調していません。

結果として、妻の死後に描かれる葬儀の場面以降も、ある意味「普遍的」です。

だから余計恐ろしくなるわけです。

国や文化を超えて、この「VORTEX」が表現している世界は、今や「ごくごくありふれた」光景なのです。

しかし、そのプロセスは「世界の分化」という、一旦生じてしまったら戻すことができない決定的に恐ろしい悲劇を伴っています。

ジャスパー・ノエの仕掛けた身も蓋もない「二正面作戦」に降参してしまうしかない映画でした。