極上の温泉映画 OLD JOY|ケリー・ライカート

 

昨年末頃から上映されている「ファースト・カウ」が好評のケリー・ライカート監督(Kelly Reichardt 1964-)。

この公開と同期をとっているのかどうかはわかりませんけれど、現在、アマゾンPrime Videoで彼女の過去作品5本が見放題配信されています。

 

「オールド・ジョイ」(OLD JOY 2006)もその中の一作です。

日本での公開は2020年に開催されたライカートの特集上映企画時のみだそうです。
私はこのアマプラ配信で初めて観ました。

 

オールド・ジョイ

オールド・ジョイ

  • ダニエル・ロンドン
Amazon

 

 

舞台となっているのはライカート映画お決まりの土地、オレゴン州です。

マタニティーブルーにどうやら入ってしまった妻とのコミュニケーションに手こずっているマーク(ダニエル・ロンドン)に、彼の古い友人カート(ウィル・オールダム)からキャンプへの誘いがきます。

マークはホワイトカラー、カートは定住している場所をもたない放浪生活者のようです。
二人とも年齢は30歳代くらいの設定でしょうか。

 

マークの愛犬ルーシーも車に乗せて二人が目指した場所はポートランドから100キロ以上離れた山中にあるバグビー温泉(Bagby Hot Springs)。

ナビゲーターだったはずのカートが目的地へのルートを出鱈目に記憶していたため道に迷ってしまった二人は一夜をテントの中で過ごし、翌朝、ようやく温泉にたどり着けたという、それだけの映画です。

何一つ事件は起こりません。

しかし、車中からの景色や二人の男性たちの間で交わされる静かな会話から、都市と自然、社会と個人、家庭と孤独、過去と現在といった様々な要素に関する「答えのない問い」が投げかけられてきます。

無駄を省いたシナリオと流麗で自然なカメラワーク、そして静かに鑑賞者を映画世界に没入させていく演出術。

この監督独特の文法がいきわたった73分間の作品です。

 

バグビー温泉が登場する場面は映画終盤の10数分に過ぎません。

ですからこの作品を「温泉映画」というのはやや大袈裟かもしれません。

ただ、その温泉シーンが抜群に素晴らしいのです。

私自身はバグビー温泉に行ったことはもちろんありませんし、そもそもオレゴン州自体に足を踏み入れたこともありません。

ネットで調べてみると結構有名な温泉らしく、アメリカ合衆国森林局による紹介ページも存在します。

Mt. Hood National Forest - Bagby Hot Springs

 

映画の中で二人の男と犬のルーシーは車から降りた後、道らしい道もない森の中を延々と歩いて温泉に向かっていきます。

森林局の説明も駐車地点から「2.3マイルのトレイル」とありますから、映画の情景と一致します。

アクセスの様子からみると日本における「野湯」の一種みたいですが、温泉がある場所には立派な木造の湯屋らしい建物があり、それなりに維持管理されているようにも見えます。

温泉場自体の歴史は意外と古く、1880年、ボグ・バグビーという人物によって発見された後、浴場などが整備されていったようです。

しかしこれも森林局の説明によればバクビー温泉は2020年に閉鎖されています(今年2024年夏、民間会社の手によって再オープンするそうです)。

「オールド・ジョイ」は2006年の公開ですから、撮影当時はまだ利用可能だったのでしょう。

 

映画の中では以前ここに来たことがあるカートが手慣れた様子でまずバケツで水を汲んで浴槽に投入し、泉温を下げています。

華氏138とありますから源泉の温度は摂氏59度くらいでしょうか。

やや熱めですが確かに少し水を加えれば十分適温化する温度です。

成分的にはナトリウム-硫酸塩泉、あるいは単純温泉の類かと思われます。

毎分100リットル近い豊富な湯量。

もちろん源泉掛け流しです。

無色透明な温泉がウッディーな湯口から湯気をあげながら投入されている様子は、ここだけ切り取るとまるで日本にある秘湯の雰囲気です。


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一人用に作られた細長い木製の湯船に各々浸かる二人の男はほとんど無言です。

特にマークは温泉に入ると同時に薄っすらと笑みを浮かべた恍惚の表情に終始しています。

これほど温泉に気持ちよく入っている人の顔をみたことがありません。

マークは、束の間、機嫌が悪い妻や俗事から解放されたことに快感を覚えているのか、それともこれから初めて父親になる喜びを感じているのか、どのようにも受け取れるのですが、一つ確かな事は、何よりもこの人物が「温泉」自体に喜びを感じていることでしょう。

そうでなければこの表情は出せないと思います。

 

温泉の写し方も独特です。

湯に浸かる二人の姿はその大半が隠されていて、温泉と肌を合わせているところはあえて写されていません。

日本の温泉番組などではよく肩から腕にかけてお湯に潜らせて持ち上げたりとありがちな演出が施されますが、この映画では湯船の中自体がほとんど見えません。

その代わりに絶大な効果をあげている要素が、温泉を囲む「音」です。

絶え間なく聞こえる温泉が注がれる音や森の響きがしっかり静かに画面に取り込まれています。

結果として、まるで二人の人物と一緒に温泉を味わうような世界に鑑賞者を引き込んでしまう効果が生じているのです。

監督のライカート自身もおそらく温泉入浴を楽しんだことがあるのではないでしょうか。

何を写し、何を写すべきではないか、わかっている人です。

 

そして、"OLD JOY"、「使い古された喜び」の意味がバグビー温泉の響きを背景にカートの口から語られます。

名場面でした。