二条城「黒書院三の間」特別入室と原画展示

 

 

松に囲まれ春を待つ ~〈黒書院〉三の間~

■2023年12月21日〜2024年2月21日
■二条城障壁画 展示収蔵館

 

お正月を迎えた二条城では、1月4日から29日まで、二の丸御殿黒書院「三の間」の特別公開を実施しています。

普段は廊下から覗くことができるだけですが、内部に立ち入り障壁画(模写)の全景を味わうことができます。

またこの企画と合わせ、展示収蔵館において三の間障壁画の原画が全面展示されました。

nijo-jocastle.city.kyoto.lg.jp

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配布されている解説ペーパー(二条城のHPに掲載されています)にもある通り、黒書院においては、徳川将軍が座した「一の間」とその面談相手が座った「二の間」に対し、「三の間」は控えの場所として機能した空間と考えられています。

ただ、1626(寛永3)年9月の後水尾天皇による二条城行幸の際に繰り広げられた宴席の際、この部屋はもう一つの役割を与えられていたようです。

「二の間」に招かれた客が宮家と摂家だったのに対し、「三の間」には門跡たちが着座したとされています。

だからでしょうか、華麗さが優先された一の間、二の間に対し、三の間を支配している空気はどことなく清楚というか、静かに抑制された趣が重視されているように感じられます。

 

絵柄は「大広間」同様、ほぼ松に統一されています。

しかし山楽や探幽が描いた松のような豪壮さや格調高さはここにはみられません。

長押を突き通して枝ぶりを誇る桃山風の巨松はなく、各々の障壁内にその姿がきちんと収められています。

「一の間」にみられる鮮やかな彩色を伴った雉子の代わりに、「三の間」では白一色の白鷺が描かれ、季節は冬をイメージさせます。

ほぼ背景の金色と松の緑と茶、浜の青に色調が整えられているため、全体的にとてもすっきりと洗練された世界が表されていると感じます。

続く「二の間」では桜が主役になりますから、「三の間」は今回の企画タイトルにもある通り「春を待つ=松」という洒落た演出が施されているということになるのでしょう。

 

二条城二の丸御殿 黒書院三の間(配布されているチラシより)

 

他の間と同様、三の間障壁画を描いた絵師は狩野尚信(1607-1650)とされています。

後水尾天皇行幸の時期を考えると、彼はまだ20歳にも満たない年齢だったことになります。

当然、黒書院全体の障壁画を尚信一人で描ききったわけではなく、ベテランの狩野派絵師たちがサポートしたと考えられていて、特に「二の間」長押上の中国風絵画については別の絵師による作画であることがはっきりしています。

 

「三の間」の松は明らかに尚信の兄である探幽(1602-1674)の描くそれとは違います。

枝振に派手さはなく、葉の表現も明晰な強さよりも柔和な優美さが顕著に志向されていることがわかります。

「黒書院」自体が、大名一般に睨みをきかせる必要があった「大広間」とは違う性質、すなわち徳川家と親しい関係者との対面を目的とした空間ですから、障壁画の雰囲気も自ずから違ってきます。

しかし、この松の描き方は、そもそも探幽と尚信、二人の天才青年絵師がもっていた感性自体の違いからもきているのではないか、そんな風に今回あらためて感じました。

格調高さで圧倒する探幽に対し、尚信の松には素晴らしく幽玄な気配が漂います。

 

離宮二条城事務所の中野志学芸員による解説文にとても興味深い指摘がありました。

「三の間」の長押上に描かれている風景について彼女は「天橋立」が表現されているのではないかとしています。

とても洗練されたモダン的ともいえるスタイリッシュなデザインが取り入れられた浜松図なのですが、確かに南北それぞれの障壁画で対称となるような表現が取られていて、細長い砂州がイメージされていることがわかります。

 

これも中野学芸員によれば、近年の研究によって、天橋立は、かつて足利義教が室町殿(花の御所)内に建てた「新造会所」、さらに義政による「泉西殿」の障壁画に描かれた題材であったことが判明しているのだそうです。

この名所は足利義満が好んで訪れた場所でもあり、続く室町将軍たちがそれに因んで重要施設内に描かせたと考えられています。

徳川家はそのモチーフを二条城黒書院内に取り込んだということになります。

 

ただ、この「室町将軍の威光」としての天橋立は、それを知らない人たちが見ても何のことかわからないわけです。

「黒書院」に招かれた宮家や摂家、門跡たちであれば、「天橋立」が何を意味しているのか解すことができるという前提があっての描画だったのです。

そして、このような二条城築城の150年くらい前に遡る伝統を描くことができたのは、室町幕府に絵師として仕えた正信(1434?-1530?)を始祖にもつ狩野派だけだったのではないかとも中野学芸員は指摘しています。

 

とはいえ、狩野尚信は、例えば雪舟が描いた国宝「天橋立図」のように、実際の景色そのものをあからさまに描くようなことはしていません。

繊細なデザインで砂州を仕上げつつ、松は絶妙な遠近感で配置され、幻想的な香気をも醸成しています。

なんとなく天橋立を想起させる、そんなレベルに具象性が抑えられているのです。

そこがこの絵師の天才的なセンスであり、三の間特有の幽玄世界を創出している要因ではないかと考えています。

 

今回、特別に立ち入ることができる「三の間」に飾られている障壁画は当然に復元模写なのですが、この空間と合わせて鑑賞することで、展示収蔵館の原画を、東西南北の位置関係こそ違うものの、かなり臨場感をもって楽しむことができると思います。