菊と扇~〈黒書院〉四の間~
■2023年10月5日~12月3日
■二条城障壁画 展示収蔵館
外国人観光客や修学旅行生たちで大賑わいの二条城。
すっかりコロナ前の状況に戻ってしまいましたが、嵐山周辺や清水寺、祇園界隈と違って、この大人気スポットは不思議とオーバーツーリズム云々で問題視されることが少ないように思います。
周囲を含め比較的たっぷりとしたスペースが確保されているからなのでしょう。
さらに城内の「展示収蔵館」は、幸いにも団体やグループ客のルートには入っていないらしく、観光シーズンにもかかわらずほとんど混雑はありません。
今回も快適に鑑賞することができました。
nijo-jocastle.city.kyoto.lg.jp
令和5年度秋季の展示として選ばれた二条城障壁画原画は、「黒書院」の「四の間」です。
狩野探幽や山楽による猛禽や、甚之丞の虎などといった派手なキャラクターが描かれていない、やや地味な一室というイメージがあります。
ところが、この空間が圧倒的に素晴らしいのです。
数ある二条城二の丸御殿各間の中で、一番好きなエリアかもしれません。
ただ、残念ながら現在四の間を飾る復元模写や写真などでは全くこの美しさは伝わりません。
ほぼ四の間空間を再現した展示収蔵館の原画実物展示によってのみ、確認することができると思います。
さて、二条城二の丸御殿は、徳川家によって構築された「ヒエラルヒー」がそのまま設計思想に反映されているようなところがある建築です。
「遠侍」「大広間」「黒書院」「白書院」と、雁行型に配された建屋を奥に進むに従い、そこに立ち入ることができる身分が厳格に制限されていきます。
「黒書院」は、大名たち一般との面会を想定した「大広間」とは違い、徳川将軍と親密な関係にある宮家や公家、譜代大名の来訪を想定して造作された空間です。
しかし、その選び抜かれた来訪者たちも、細かいヒエラルヒーによって区別され、彼らが通される「間」がそれぞれに異なっているのです。
「黒書院」自体が極めて上層に位置する階級の人たちの入室に限定されているのですが、その中で、さらに身分と位によって差がつけられているわけです。
一見、典雅そのものに見えるこの空間が、近世ならではの細かすぎる階級区分装置といった性質を、二条城内で最も濃密に表出しているといえるかもしれません。
そして各間を飾る障壁画群も、当然、そうした冷厳なヒエラルヒーに準じることになります。
1626(寛永3)年、後水尾天皇(1596-1680)の二条城行幸にあたって、「黒書院」はその「ヒエラルヒー仕様」を存分に発揮することになりました。
松が大きく描かれた「一の間」は将軍が座し、訪問客との面談が行われるメインルームです。
その「一の間」南に連続する「二の間」が許容する来訪者は「宮家・摂家」限定とされていました。
「二の間」の右隣、東側に「三の間」がありますが、この部屋は「門跡」にあてがわれたのだそうです。
つまり一から三の間は皇族と摂関家限定の特別ルームだったということになります。
そして「四の間」です。
一の間と「帳台」を挟んで東に位置するここは、宮家・摂家・門跡以外の「諸公家公卿殿上人」、つまり「その他の貴族たち」を迎え入れる空間として使用されました。
(上記、行幸時の利用区分については、館内で配布されている元離宮二条城事務所 松方直子学芸員の解説ペーパーを適宜参照しています)
「一の間」から「三の間」の障壁画には、松や桜、さまざまな鳥たちに加え、漢画風の山水楼閣など多種多様な情景が描かれています。
これに対して、「四の間」の主たるモチーフはほぼ「菊」だけです。
さらにその菊花自体のスタイルも、ほとんどが厚塗りの胡粉で描かれたワンパターンに統一されています。
垣根を配することによって立体感を出し、ところどころ土坡や水辺の表現を施して変化を持たせてはいますが、東西南北を仕切る障壁画が、一〜三の間に対して、驚くほど均質なデザインで仕上げられていることがわかります。
他方、長押の上には菊とは違う情景が描かれています。
秋草をところどころに置きつつ、46面に及ぶという「扇」の描画が金地の背景に舞っています。
扇には花鳥や風景などがそれぞれに描かれていますが、一つとして同じ絵柄はありません。
後に琳派が好んだような「扇面屏風」的な、きっちりした平板な配置をとることはなく、まさに扇がひらひらと舞っている、その一瞬を静止画として取り込んだかのような気配が感じられます。
「動と静」を同時に把握する、驚きの表現力が駆使されているのです。
黒書院の障壁画は狩野尚信(1607-1650)によって描かれたとされ、展示収蔵館の解説プレートでも彼一人の名が表記されています。
しかし、これだけの障壁画群をまだ20歳にも満たない青年絵師が一人で仕上げられるわけもありませんから、おそらく他のベテラン狩野派絵師たちが強力にサポートしたと推定され、展示収蔵館もその説をとっています。
ただ、では尚信のセンスが全く反映されていないかといえば、おそらくそうも言い切れないのでしょう。
例えば兄探幽(1602-1674)が描いた大広間の松や孔雀にみる格調高い表現力とは違う、独特の繊細さが黒書院の絵画にはみられます。
四の間の菊と扇には、若き尚信独自の感覚や技巧が全体として浸透しているような気配を感じるのです。
ところで、前述の通り、黒書院四の間の主賓たちは、皇族や摂家を除いた上層貴族たちです。
このヒエラルヒー区分に関し、どのように尚信と狩野派絵師たちは配慮しているのでしょうか。
モチーフとして「菊」に限定した時点で、一から三の間がもつ凝った多様性との区別が感じられます。
また、菊花のデザインをほぼ統一しているところも、実は「描き分ける」手間を省いている工夫とみることができます。
胡粉を贅沢に使うものの、ほとんど判を押したように同一形状をとることができる菊のデザインは、一定の技術をもった絵師なら誰もが遂行できる部分でもありますから、分担作業上も有意に働いたと考えられます。
つまり作画の効率性を視野に入れながら、尚信たちはしっかり、「将軍・皇族・摂家」といった最高位のエスタブリッシュメントと、「その他貴族」の区別を意識して四の間を仕上げているといえます。
でも、この「その他貴族」たちは、ある意味、厄介なクラスターでもあったのではないでしょうか。
さすがに宮家や摂家の人たちは軽々しく城内の様子などを語ることはなかったでしょうけれど、招かれた上層貴族の中には、あれこれとその内装についての感想を、宴席などで面白おかしく自慢げに披露してしまう人がいたとしても不思議ではありません。
そうした口うるさい連中を黙らせる、あるいは逆にこの空間の素晴らしさを流布させるということも、尚信たちは十分検討、意識したとは考えられないでしょうか。
その証左が、長押上に舞う「扇」です。
秋草である薄の繊細な線描を背景に、あえて夏のモチーフである扇を散らすというテーマ自体が奥深い世界観を表す中、46種ものさまざまな光景が扇に写されているわけです。
一面一面、どのような意味が込められているのか、観る側の教養レベルが試される意匠でもあります。
しかも、各々の扇は、図柄が全て違っていることからも、一人の絵師が描いたものではないことが容易に想像できます。
つまり「菊」と同様、ここでも「分業」による効率化が巧妙に仕組まれているのです。
尚信が率いた狩野派たちは、「うるさ方」の貴族たちを効率的に黙らせるストラテジーとして、単純化された「菊」によって最上位階層との差をみせつけながら、「扇」の知的マジックで幻惑するという、極めて巧妙な離れ技を仕掛けている、とみたら尚信贔屓が過ぎるでしょうか。
そして、シンプルな菊と、デリケートかつ多彩に舞う扇が組み合わされた全体としての「黒書院四の間」が生み出す空気は、この近世初期のヒエラルヒー御殿の中で、結果的に、最もモダンな美意識を感じさせてくれるように思えます。
具体的な情景が扇の中に閉じ込められているため、部屋全体としてみると、リズミカルな典雅さが優勢となるようです。
そこにどうしようもなく惹かれてしまうのかもしれません。
実に素晴らしい、秋の展示でした。