決定版!女性画家たちの大阪
■2023年12月23日〜2024年2月25日
■大阪中之島美術館
59名もの日本画家が取り上げられています。
全て女性です。
男性画家は一人もいません。
「大阪」がテーマの一つにはなっていますけれど、美人画や風俗画など、主題自体として女性を扱った作品の比率が非常に高く、まさに「女だらけ」の展覧会がごとき様相を呈しています。
正直、ちょっと胸やけを起こしてしまいそうになるくらい女気が濃く、会場の中間コーナーあたりにまとめて紹介されていた南画系の渋い風景画群が発する清涼感でようやく一息つけたといった感じです。
とはいえ、このような展示が成立してしまうこと自体、大正期を中心とした大阪画壇における女性画家たちの層がいかに厚いものだったのかを証明しているともいえます。
類例が思い浮かばないほどユニークな内容に仕上がった企画展です。
小川知子学芸員(大阪中之島美術館研究副主幹)と彼女の協力者たちの執念ともいうべき企画力が生み出した特別展といえるのかもしれません。
小川学芸員はもともとフランス近代の美術史研究が専門で2022年に開催された「モディリアーニ展」でもその中心的役割を果たした人だったと思います。
この美術館の主体がまだ「大阪市立近代美術館建設準備室」だった時代に島成園のご遺族と出会ったことをきっかけとして、彼女は成園をはじめとする大阪の女性日本画家研究にものめり込んでいったようです。
すでに同種の展覧会を複数回、企画実現してきているようですけれど、大阪中之島美術館開館をふまえ、いよいよ「決定版」としてこの展覧会を世に問うことになったのでしょう。
ほとんど無名で生没年すら不詳の人物を含め、極めて丁寧に網羅性を追求しながら画家たちが取り上げられています。
膨大な調査研究が必要だったはずであり、企画に関わったキュレーターの方々の熱意が強烈に伝わってきました。
とても覚えきれないほど多彩な画家が登場しています。
しかし中でも数、質ともに群を抜いている存在は、やはり、展示の冒頭に紹介されている島成園(1892-1970)でしょう。
前・後期合わせて186点に及ぶ展示作品の内、彼女の絵画は42点を占めていて、他の画家を圧倒しています。
そして数だけではなく、この人は画家として非常に特異な眼をもちつつ数々の傑作を生み出していったことが、今回の初期作品から後期に及ぶラインナップの中で明らかにされていると感じました。
成園の自画像が2点、展示されています。
1918(大正7)年に「無題」(大阪市美蔵)として発表された人物画は、痣のある女性(成園自身)が座り込んで放心しているような姿が描かれた作品で、近年よく様々な展覧会で見かけます。
成園の今や代表作ともいえる一枚です。
これも有名な話ですけれど成園自身に「痣」はありません。
今こんな絵を発表したら一気に炎上しそうではありますが当時もそれなりに批判は浴びたそうです。
その6年後、1924(大正13)年に描かれた「自画像」(大阪市美蔵)は、痣こそないものの、ここでもおよそ健康的とは思えない女性の顔が写されていて、異様な個性が漂ってきます。
北野恒富(1880-1947)の影響や、大正期のデカダンブームに乗っかっている部分ももちろんあるのでしょうけれども、島成園の自画像からは、もっと内面的な、ほとんど自己分裂を起こしていたのではないかと思わせるくらいの追い詰められた心境が滲み出ていると感じます。
この画家の中にはとても客観的に事物をとらえる眼と、それとは相反するドス黒い感情にまみれた主観の眼が同居し拮抗していたのではないか、そんなふうに思われました。
こうした相反する、切羽詰まった「眼」は、何も成園だけが持っていたわけではなく、例えば上村松園にしても、「焔」や「花がたみ」といった作品において、どこか狂気の世界を思わせる作品を残してはいます。
ただ、概ね古典的な美人画の世界にとどまっていた松園に対し、成園はその矛盾した眼の有り様をかなり執拗にもち続けた人なのではないかと思います。
1920(大正9)年に発表された大作「伽羅の薫」(大阪市美蔵)はそうした成園独特の芸術が示した一つの到達点なのでしょう。
ビアズリーが描いたサロメの母エロディアスを思わせるような、官能とデモーニッシュさが混じり合った島原太夫の姿に圧倒されます。
一気に華開いた感がある大正時代の大阪女性画家たちの中には、三露千鈴(1904-1926)のように、すでに芸術家として自立的な個性を意識していた人がたくさん現れはじめていたのでしょう。
でも、島成園ほど複雑に自他の意識が絡み合った個性を絵画に表した人はいないように思えます。
成園は横浜正金銀行(後の東京銀行)に勤めていた人物と結婚したため、夫の転勤に伴い上海はじめ各地を転々として暮らした人でもあります。
結婚後、スランプに陥ったとはいえ、上海時代の作品をみると、技術的な冴えがむしろさらに高まっているように感じます。
混乱した内面に呑み込まれることなく、しっかり客観的な画家としての眼を失わずに絵筆を握り続けた画家の執念が昭和初期の作品からは伝わってきました。
他方、島成園とはほぼ正反対の立ち位置で活躍したもう一人の女性画家、生田花朝(1889-1978)の作品には、東京や京都の画壇とは違った独特のセンスを感じることができます。
1927(昭和2)年に発表された「四天王寺聖霊会図」(大阪城天守閣蔵)は巨大な円の中に寺の祭礼が賑やかに描かれた大作です。
しかし、よくみると細部まで非常にシンメトリカルな構図が意識されていることに気がつくと思います。
近世以前に描かれた伽藍絵図にみられる様式性が取り入れられると同時に、「円」が象徴的に使われていることから、なにやら「曼荼羅」のような趣も感じられます。
こうした古典的様式性を巧みに取り込みながらも、全体としてみると、とても軽やかにいきいきとした親しみやすさが表されているのです。
大家、菅楯彦(1878-1963)の軽妙洒脱な画風が生田花朝によって引き継がれたことによって、北野恒富風の濃厚な美人画系とは別流の画風が生まれ、それが大阪画壇に独特の色彩を与えています。
大阪という都市独特の感性は、実は島成園よりもむしろ生田花朝にあるといっても良いかもしれません。
その他、波多野華涯(はたの かがい 1863-1944)の「西洋草花図」(大阪中之島美術館蔵)にも目を奪われました。
跡見学園の創始者である跡見花蹊(1840-1926)の手ほどきで書画をはじめたそうなのですが、この三幅対に描かれた夥しい草花の描写は漢画の様式を楽々と飛び越えていて、構図、色彩ともに極めて現代的なイメージを受けます。
経歴を見てもどうしてこういう才能が開花したのかよくわかりません。
「決定版」とされた企画ではありますが、この展覧会でその存在が多くの鑑賞者の目に触れた知られざる女性画家たちの調査研究、そして新しい才能の発見という余地はまだまだありそうです。
小川知子学芸員自身が認めている通り、今回は「現時点での決定版」なのでしょう。
一応、「大阪の女性画家」シリーズはこれで「最終回」のようですが、今後さらにテーマを絞った企画等が生み出されていきそうな予感を覚えた展覧会でした。
なお、写真撮影については「第5章 新たな時代を拓く女性たち」と題されたコーナーのみ可能となっています。