東本願寺の飛地境内地「渉成園(枳殻邸)」内にある「園林堂(おんりんどう)」が特別公開されたのでお邪魔してみました。
(第58回「京の冬の旅」非公開文化財特別公開|期間2024年1月6日〜3月18日)
なお特別公開料金は500円と、この観光企画の一般的設定である800円より低く設定されてはいますけれど、渉成園自体への入園に別途500円(庭園維持協力寄付金の名目)がかかりますから園林堂内を含めての見学には合計1000円必要ということになります。
枳殻邸内に点在する建物群は通常非公開ですが、今回のような観光企画やさまざまな園内での催事を機会に特別公開されてきました。
ただ、園林堂の公開は比較的珍しいのではないでしょうか。
初めて入室しました。
受付がある大玄関からまず「閬風亭(ろうふうてい)」の巨大な畳敷空間に入り、そこから廊下で繋がれた園林堂の縁側にそのまま出ることができます。
閬風亭自体も普段は内部公開されていません。
軽やかにリズムを刻むガラス窓越しに印月池の風情などを楽しむことができます。
園林堂は桁行四間半、梁間四間の入母屋造、面積は約55平方メートル。
それほど大きな建物ではありません。
建造は1957(昭和32)年と、幕末から明治期の建築が大半を占める枳殻邸内ではかなり新しいお堂です。
1953(昭和28)年、それまで建っていた明治期の建物が火事によって焼失。
現在みられる園林堂はその4年後に再建された建築物ということになります。
この昭和の再建において、堂内の襖絵制作を任された人物が棟方志功(1903-1975)です。
44面にわたってダイナミックな墨と彩色による図柄が描かれています。
私はこの大版画家の作風をあまり好まないのですが、園林堂内におけるかなり抽象性を意識した描画には少し惹かれました。
内陣に安置されている阿弥陀仏をとても生き生きと荘厳しています。
なお、内部見学は説明スタッフの方に引率されるスタイルをとっています。
概ね寺内施設の写真撮影に寛容な東本願寺ですがここは仏間であることに加え室内が相当狭いため、襖絵などを傷つけてしまうリスクも考慮したのでしょう。
今回は内部撮影NG扱いです。
枳殻邸は歴代の東本願寺門主が隠居した後の住まい、あるいは迎賓の場として機能していました。
ただ、他の茶室や接客空間と違い、園林堂は堂内に仏像を安置しています。
この庭園の中で最も宗教的要素の濃い建築物といえます。
徳川家からの土地寄進を受け、寛永期に造営が始まったと考えられる枳殻邸は江戸時代末期、大規模な市中火災の延焼を二度も被りほぼ全ての建物が失われました。
一度目は安政5年(1858)の下京大火、二度目は禁門の変に伴う「元治の大火」(1864・元治元年)、通称「どんどん焼け」です。
この際、園林堂も焼け落ちていますが不運にもこのお堂は昭和に入ってからもう一度火災にあってしまったということになります。
ただ、三度も焼失する度に美しく再建されてきたわけですから、枳殻邸において欠かすことができない重要施設だということがわかります。
さて、この園林堂の「門」とされるのが、すぐ東側に建てられている二階建の茶室「傍花閣(ぼうかかく)」です。
こちらは1892(明治25)年の建造。
付近にあった園林堂の昭和28年火災には巻き込まれず明治期再建時のまま現存しています。
確かに園林堂の正面に相対し、楼門のように建てられています。
ところが、傍花閣は当初、園林堂とは特に関係なく建造されていたことが判明しています(後述の真宗大谷派による報告書より)。
建造時期をトレースすると園林堂より傍花閣の方が早く庭内に姿を現していたことが確認できるのだそうです。
むしろ後から建てられた園林堂の方が傍花閣を「門」に見立てたということなのでしょう。
私はかつて、傍花閣のあまりにもユニークな形状について、もともとは竜宮城の門を模し漆喰造を脚部に取り入れていたと考察しているある資料を読み、その通りなのだろうと思っていました。
その資料とは京都府教育委員会が2009年に刊行した『京都府の近代和風建築ー京都府近代和風建築総合調査報告書』です。
当報告書では元治の大火で焼ける前、傍花閣は「龍宮門形式で、漆喰仕上げの袴腰を持つものだった」としています。
明治の再建にあたり、素材を漆喰から木材に替え現在の仕様に変更されたということになります。
ところが、つい最近2022年に発表された東本願寺、つまり真宗大谷派自身が渉成園を調査した資料『真宗本廟(東本願寺)飛地境内地建築群総合調査報告書』では違った見解が示されているのです。
この報告書では、かつて枳殻邸が描かれた江戸時代の絵図「百間屋敷御庭之図」内にみられる竜宮城風に描かれた傍花閣の様子を「信頼性が高いとは言い難い」と斬って捨てています。
「百間屋敷御庭之図」は1761(宝暦11)年にこの庭園の全景を描いた最古の絵図とされていますが、大谷派調査団はここに描かれた別の建造物である「回棹廊(かいとうろう)」の様子に「不審な点」があることを指摘。
これを論拠の一つとしつつ、別の江戸期図面では現在同様の仕様が確認できることなどから、傍花閣自体の「漆喰竜宮門」表現も不正確ではないかと推論しています。
先にみた京都府教育委員会の報告書の説明にある「竜宮門形式」はおそらく「百間屋敷御庭之図」に描かれた傍花閣の絵を参考にしています。
つまり、真宗大谷派調査団は京都府教育委員会がその論拠とした絵図自体の信憑性に疑問を呈すことによって「傍花閣原型=漆喰製の竜宮門」という説を否定していることになります。
私は京都府教育委員会説に従い、白い漆喰で覆われた竜宮門形式の下層部分をもっていた江戸期の傍花閣が、明治の再建時にそれを木造に変更することで美観上の優位性に配慮したのではないかとかつて考えていました。
キッチュな白い竜宮門よりもウッディーに統一された現在の傍花閣の方がはるかに園内の景観にマッチしていると感じられたからです。
しかし大谷派調査団が指摘するように、傍花閣がもともと全て木造で建造されていたとするのであれば、江戸時代の昔からこの摩訶不思議な茶室兼用の楼閣は今と変わらずシックな色調で建っていたということになります。
しかし、ではそもそもなぜ「竜宮門」の形はわざわざ木で造形されたのでしょうか。
竜宮をモチーフとするのであれば、複雑な構造と堅牢性の点で工夫が求められる木造ではなく、この形状を表すに一般的な漆喰造の方が簡単だったようにも思えます。
あえて高度な技術が要請される木造を採用した理由が当初から園内の美観に配慮したものだったとすれば相当に奇異なセンスが働いていたとしか考えられません。
近年の詳細な東本願寺自体の調査でも、結局この異形楼閣の正体が何なのかまでは判然としないようです。
相変わらずのミステリーをひめつつ、春の桜を待っているかのような傍花閣でした。