中尊寺金色堂仏像群のミステリー|東京国立博物館

 

建立900年 特別展「中尊寺金色堂

■2024年1月23日~4月14日
東京国立博物館

 

東博本館特別5室を会場としたお馴染みの「出開帳」企画です。

ただその豪華さと機会の希少性という点では昨今、頭抜けた内容といえるのではないでしょうか。

実際、圧倒されました。

時間帯によっては入場待ち行列ができるほどの盛況ぶりです。

chusonji2024.jp

 

震災前ですからもう15年くらい昔のことになりますけれど、一度だけ、岩手平泉にある中尊寺金色堂を訪れたことがあります。

鉄筋コンクリート造による覆堂の中、さらにガラスで防御された金色堂は、確かにその全面ゴールデン螺鈿装飾に息をのむほどの美しさを感じたのですが、中に安置されている仏像群となると、鑑賞位置からは離れすぎていてかなり視認が難しかった印象が残っています。

www.chusonji.or.jp

 

本展では「中央壇」「西北壇」「西南壇」と三つの壇上に構成されている金色堂内の諸仏群33躯の中から、中央壇に安置されている国宝仏像11躯が全て上野に運ばれ公開されています。

記録が残る近代以降、こうした規模での寺外公開は初めてなのだそうです。

しかも各像は独立型展示ケースに収められていますから、360度、間近に鑑賞することができます。

おそらく現地平泉でもこのような体験は味わえないと思われます。

非常に稀有な鑑賞機会といえる特別展です。

 

金色堂内諸像は全て門外不出というわけではなく、単体または数躯という規模であれば、いままでも寺外に運ばれ様々な企画展に登場してきました。

例えば1991(平成3)年、京都国立博物館で開催された「定朝から運慶へ 院政期の仏像」展の図録をみると、金色堂中央壇諸仏の内、「地蔵菩薩立像」1躯と「観音菩薩立像」がゲスト出陳されていることが確認できます。

この時点では両仏像ともまだ国宝ではなく重要文化財指定にとどまっていました。

 

院政期の仏像」展図録の解説は当時京博の資料調査研究室長だった伊東史朗が担当しています。

彼の解説には「いずれの像も中央作として遜色のない出来であるが、用材が東北地方の仏像によく使われたヒバ(阿弥陀、両脇侍)、カツラ(六地蔵、二天)なので、製作地についてはなお慎重な検討が必要である。」とあります。

つまり90年代初頭当時、金色堂諸仏は京都で造像され運ばれたのか、平泉周辺で製作されたのか、よくわからないということになっていたわけです。

それから30数年が経過し、この間、諸仏は2004年に国宝指定されています。

さて、では2024年、東京国立博物館に中央壇諸仏11躯が揃って登場した本展では、この「製作地」についてどのような考察、解明がなされているのでしょうか。

 

それが驚くべきことに、いまだに「わからない」のです。

 

91年当時、伊東史朗が「ヒバ」と説明していた像の用材が現在も特定できていないことがその要因の一つです。

今回の「中尊寺金色堂」展図録の作品解説(P.152)では「ヒバないしヒノキとみられる針葉樹材」という表現にとどめられていて、製造地についての断定的な記述は見られません。

91年段階では「ヒバ」とされていたのに現在では「ヒバあるいはヒノキ」となっていますから用材の調査はそれなりに進んでいるようではあります。

 

本展図録内で仏像に関する解説を主に担当している東博の児島大輔主任研究員による総論解説を読むと、関係諸像の用材について「いずれも露出した素地の目視による判定であり、切片を用いた顕微鏡下での樹種識別調査を行っていない。今後の厳密な調査結果によっては訂正が必要となる可能性もある。」と慎重に判断が留保されています(P.24)。

仏像は美術品である前に信仰の対象ですから、わずかな部材でも摘出して調査することができないということなのでしょう。

しかし相当に技術レベルが向上しているとみられる現在の非破壊検査によっても「ヒバ(アスナロ)」と「ヒノキ」の分別ができないということに少し驚きます。

植物学に全く親しんでいないのでよくわかりませんけれども、よほど両樹木は性質が似ているということなのでしょう。
900年も前の物質であるということも調査を難しくしているのかもしれません。

 

仮に用材が「ヒノキ」であると特定された場合、この木材は都での仏像製作において一般的に用いられていたものですから製作地としては京都が有力になってきます。

特級の技巧と芸術性を備えている金色堂諸仏の造形は明らかに当時の平安京で活躍していた一級の仏師集団によるものと考えるのが自然です。

他方「ヒバ」であった場合、東北地方で好まれた素材である以上、平泉周辺での現地製作という可能性が高まることになります。

いずれにせよ、世界遺産内にあるこの超有名な仏像群誕生の地が21世紀に入っても謎のままという状態にはやや違和感を覚えます。

 

 

さらに今回展示されている金色堂「中央壇」の諸像には、あるミステリーが付着していることでも知られています。

中央壇はその下に金色堂を創建したとされる藤原清衡(1056-1128)の遺体を納めています。

阿弥陀如来坐像と脇侍の勢至・観音両菩薩はいずれも清衡時代の造像です。

ところが、この中央壇阿弥陀三尊を囲む六地蔵菩薩の立像と増長・持国の二天立像は奥州藤原氏二代、基衡(1105-1157)の時代に製作された像なのです。

では清衡時代の六地蔵と二天はどこにいってしまったかというと、なんとそれらは基衡の遺骸を安置していたと推定される「西北檀」にちゃんと残っているのです。

つまりいつの間にか清衡壇(中央壇)と基衡壇(西北壇と推定)に存置されている仏像群がシャッフルされてしまっていたということになります。

今回上野で披露されている11躯は「中央壇」の諸仏ですから全て奥州藤原氏初代清衡の時代に製作されたものとみてしまいがちなのですが、以下のように製作年代が異なっていると推定されるのです。

 

阿弥陀如来坐像1躯・勢至菩薩立像1躯・観音菩薩立像1躯→清衡時代の製作

地蔵菩薩立像6躯・増長天立像1躯・持国天立像1躯→基衡時代の製作

 

用材も清衡時代が「ヒバまたはヒノキ」なのに対し、基衡時代のものは「カツラ」と異なります。

このシャッフル現象についても、実は原因がよくわかっていません。

過去の修復作業や移設に伴って単に置き間違えられたのではないかという説もあるくらいです。

清衡時代と基衡時代、年代は違うものの、それぞれの仏像がスタイルをほぼ同じくしているため、入れ替えられても不自然に感じられないことがこのシャッフル現象を引き起こしているとも想定されます。

実際、阿弥陀三尊と他の諸仏をみても、そのスタイルは見事に院政期彫像の優美さと気品を共に兼ね備えていて清衡-基衡の二代にわたる世代間の相違は外見からほとんど感じ取れません。

このことからどちらも同じ仏師系の集団によって製作されていることが強く推定されると思います。

 

加えて製作時期に関係して「阿弥陀如来坐像」の螺髪に面白い特徴が見られます。

この像の後頭部を覆う螺髪には「逆V字形」に編まれたようなデザインをみることができるのですが、こうした造形は平安後期というよりも鎌倉時代に現れるスタイルなのだそうです。

つまり清衡時代造像の「阿弥陀如来坐像」は院政期に主流だった様式よりも一歩先の鎌倉初期に現れはじめたスタイルを一部取り入れているともいえることになります。

このことについて、当時の平泉は都よりも「進取性」があったのではないかと想像する東博の見解にはやや牧歌的な印象を受けますが、いずれにせよ金色堂諸仏が院政期の中でも際立ってユニークかつ完成度の高い彫像であることに違いはありません。

様式上の新奇性は製作地推定につながる要素の一つとみることもできるかもしれません。

「逆V字形編み込み螺髪」は相当に斬新なヘアスタイルであったはずであり、もし都における中央仏師集団の中で製作されたのであれば、前例を振り払う明確な意思を伴った造形ということができます。

逆に平泉で製作されたとすれば、当時ほとんど一人勝ちのような状態だった円勢系仏師の中でも主流派ではなかった新興グループが奥州藤原氏に招かれる形で活動の範囲を東北に広げようとしたという妄想も成り立ちそうです。

「ヒバなのかヒノキなのか」、「京都なのか平泉なのか」。

いまだにロマンティックな検討余白を残す金色堂仏像群のミステリーです。

 

会場で展示されている金色堂の模型


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